【あらすじ】
介護士・田中美咲(32歳)は、「誰かの役に立つこと」だけを生きがいに、自分の体を犠牲にして働き続けていた。
しかしある夜、ついに体が限界を迎え、休職を余儀なくされる。
仕事を失い、生きる意味を見失った美咲の前に現れたのは、かつての先輩・香織と、一枚の黒いシャツだった。
「騙されたと思って、着てみて」
そのシャツは、介護士だった妹のために人生をかけて開発されたものだった——。
体を壊し、心を壊し、すべてを失ったと思った美咲が、どうやって「自分を大切にする」ことを学び、再生していくのか。
これは、現代を生きるすべての「頑張りすぎる人」に贈る、再生と希望の物語。
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第1章 おかえり
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三年ぶりに、あの匂いを嗅いだ。 消毒液と、かすかな線香の香り。そして、どこからか漂ってくる味噌汁の湯気。特別養護老人ホーム「ひだまり荘」の、懐かしい匂いだった。 エントランスの自動ドアが開いた瞬間、私の足は一瞬だけ止まった。 大丈夫。もう、大丈夫だから。 自分に言い聞かせるように、一歩を踏み出す。
「田中さん、お帰りなさい」
施設長の木村さんが、受付の向こうから歩いてきた。五十代後半の小柄な女性。三年前と変わらない、穏やかな笑顔だった。 私は深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。本日から、またよろしくお願いいたします」
「迷惑だなんて。待ってたのよ、みんな」
木村さんの言葉に、胸の奥がきゅっと締まる。 待っていてくれた。そう言ってもらえることが、こんなにも嬉しいなんて。
「田中さーん!」
奥のほうから、若い女性の声が響いた。振り向くと、介護スタッフの制服を着た二十代の女の子が、小走りでこちらに向かってくる。 新人の頃に私が教育係をしていた、佐藤さんだった。
「本当に戻ってきてくれたんですね! 嬉しい!」
「佐藤さん、久しぶり。元気そうで良かった」
「田中さんこそ! なんか、雰囲気変わりました? 前より……なんだろう、柔らかくなったっていうか」
柔らかく、か。 三年前の私は、どんな顔をしていたんだろう。きっと、いつも眉間に皺を寄せて、必死な顔をしていたに違いない。
「そう? 歳取っただけだよ」
「えー、そんなことないですって。あ、そうだ、山田さんがずっと待ってたんですよ。『美咲ちゃんまだ?』って、毎日のように聞いてきて」
山田さん。 その名前を聞いた瞬間、私の心臓が跳ねた。
「山田さん、私のこと……覚えてるの?」
「覚えてますよ! 認知症で色々忘れちゃっても、田中さんのことだけはちゃんと覚えてて。すごいですよね」
私は、言葉が出なかった。 三年も経ったのに。認知症で、昨日のことすら忘れてしまう山田さんが、私のことを覚えていてくれている。 会いたい。今すぐ、会いたい。
「田中さん、今日はまずオリエンテーションからね。午後から、ゆっくり利用者さんたちに挨拶して回りましょう」
木村さんの声で、我に返る。
「はい。よろしくお願いします」
私は改めて頭を下げ、施設の奥へと歩き出した。
廊下を歩きながら、窓の外を見る。中庭には、三年前と変わらない桜の木があった。今は冬だから、枝だけが寒そうに空に伸びている。 あの桜が満開だった春、私はここを去った。 いや、去ったんじゃない。 ——逃げ出したんだ。
違う。 逃げ出したんじゃない。
体が、壊れたんだ。
*
三年前の、あの夜のことを思い出す。
夜勤明けの朝だった。 いつものように、利用者さんたちの朝食介助を終え、申し送りを済ませ、更衣室で着替えようとした、その瞬間。 腰に、電撃のような痛みが走った。
「っ……!」
声にならない悲鳴を上げて、私はその場にしゃがみ込んだ。立てない。腰が、まったく動かない。 冷や汗が、額から流れ落ちる。
「田中さん!? 大丈夫ですか!?」
同僚の声が、遠くから聞こえた。大丈夫、と言おうとしたけれど、声が出なかった。 痛い。痛い。痛い。 腰だけじゃない。肩も、首も、背中も。全身が悲鳴を上げている。 ああ、私の体は、ずっと前から壊れかけていたんだ。 それを、無視し続けていたんだ。
救急車で運ばれた病院で、医師から告げられた診断名は「腰椎椎間板ヘルニア」だった。
「田中さん、かなり無理をされていたんですね。MRIを見ると、椎間板がかなり潰れています。全治三ヶ月……いや、完全に回復するには半年以上かかるかもしれません」
半年。 その言葉が、頭の中で何度も反響した。
「先生、私、仕事があるんです。利用者さんたちが待ってるんです。半年も休めません」
「田中さん」
医師は、真剣な目で私を見た。
「このまま無理を続けたら、一生歩けなくなる可能性もあります。今は、休むことが仕事だと思ってください」
休むことが、仕事。 その言葉の意味が、私には分からなかった。 休んでいる間、誰が利用者さんたちの世話をするの? 休んでいる間、誰が山田さんの話を聞いてあげるの? 私がいなくなったら、みんな困るじゃない。
「でも……」
「田中さん」
医師は、諭すように言った。
「あなたが倒れたら、あなたを必要としている人たちは、誰が支えるんですか?」
その問いに、私は答えられなかった。
*
施設長室で、木村さんと向き合う。 三年ぶりの復帰にあたってのオリエンテーション。勤務体制や、新しく導入されたシステムの説明を受けながら、私は時折、窓の外に目をやった。 中庭を、車椅子を押すスタッフが通り過ぎていく。利用者さんの笑い声が、かすかに聞こえた。
「田中さん」
木村さんの声で、意識が戻る。
「はい」
「三年間、大変だったでしょう」
大変だった。 その一言では、とても言い表せない三年間だった。 体が動かない絶望。仕事を失った虚しさ。自分の存在価値が分からなくなる恐怖。 そして——再生。
「色々、ありました」
「でも、こうして戻ってきてくれた。それが、私は嬉しいの」
木村さんは、穏やかに微笑んだ。
「正直に言うとね、田中さんが休職届を出した時、もう戻ってこないんじゃないかと思ってた。介護の仕事は体力勝負だから、一度体を壊すと、心も折れちゃう人が多いの」
「……私も、そうでした」
「でも、戻ってきた。何か、きっかけがあったの?」
きっかけ。 私は、少し考えてから答えた。
「出会いがあったんです。私と同じように体を壊して、でも、立ち直った人との出会いが」
「そう」
「その人から、大切なことを教えてもらいました。自分を大切にすることは、逃げじゃないって。自分を整えることで、もっと多くの人を支えられるって」
木村さんは、深く頷いた。
「いい言葉ね。田中さん、本当に変わったわ。前のあなたは、自分を削って削って、周りに配っていた。今のあなたは……なんていうのかしら、芯があるっていうか」
芯がある。 そう言ってもらえて、少し誇らしかった。
「木村さん。私、この三年間で学んだことがあります」
「何?」
「人を支える仕事をするなら、まず自分を支えられる人間にならなきゃいけないってこと。前の私は、それができてなかった」
木村さんは、静かに私の言葉を聞いていた。
「だから今度は、違うやり方で頑張ります。無理はしない。でも、手は抜かない。自分を整えながら、利用者さんたちと向き合います」
「……ええ、期待してるわ」
木村さんは、優しく笑った。
*
オリエンテーションを終え、私は施設内を歩いた。 三年ぶりの「ひだまり荘」。建物自体は変わっていないけれど、細かいところが少しずつ新しくなっている。壁の色が塗り替えられていたり、手すりが増えていたり。
そして、利用者さんたちの顔ぶれも、少し変わっていた。 三年前にいた人で、亡くなった方もいる。新しく入所された方もいる。 時間は、確実に流れている。
廊下の角を曲がった時、車椅子に乗った小柄なおばあさんと目が合った。 白髪を後ろで束ね、皺だらけの顔に、大きな目。 山田ハナさん、八十五歳。認知症を患いながらも、穏やかな性格で、スタッフからも他の利用者さんからも愛されている人。 三年前、私が最も多くの時間を過ごした利用者さんだった。
山田さんは、私の顔をじっと見つめた。 認知症で、昨日の食事の内容も思い出せない山田さん。私のことなんて、忘れていても当然だ。三年も経ったんだから。 でも——
「……美咲ちゃん?」
山田さんの口から、私の名前が出た。
「美咲ちゃんじゃないの?」
私は、車椅子の前にしゃがみ込んだ。山田さんの皺だらけの手を、そっと握る。
「はい、山田さん。美咲です。田中美咲です」
「やっぱり! 美咲ちゃんだ!」
山田さんの顔が、ぱあっと明るくなった。
「どこ行ってたの? ずっと待ってたのよ。美咲ちゃん、全然来ないから、寂しかったのよ」
「ごめんなさい、山田さん。私、体を壊しちゃって……」
「体? 大丈夫なの? 無理しちゃダメよ」
山田さんの目に、心配そうな色が浮かぶ。 自分のことよりも、私のことを心配してくれている。認知症で色んなことを忘れても、人を思いやる心は忘れない。 それが、山田さんだった。
「もう大丈夫です。元気になりました。だから、また山田さんのお世話、させてくださいね」
「本当? 嬉しいわ。美咲ちゃんがいないと、つまらなかったのよ」
山田さんは、私の手をぎゅっと握り返した。そして、にっこりと笑った。
「おかえり、美咲ちゃん」
その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れた。 止められなかった。三年分の涙が、一気に流れ出した。
「ただいま、山田さん。ただいま……」
私は、山田さんの手を握りしめたまま、泣いた。
*
——なぜ私は、ここに戻ってきたのだろう。
三年前、体が壊れた時。 私は、すべてを失ったと思った。 仕事も、居場所も、自分の価値も。
でも、違った。 私は、失ったんじゃなかった。 気づいていなかっただけだ。
自分を支えてくれる人がいること。 自分を待っていてくれる人がいること。 そして——自分を大切にすることが、誰かを大切にすることにつながるということ。
それを教えてくれた人がいた。 あの人との出会いがなければ、私は今、ここにいなかった。
これは、そのお話。 体が壊れて、すべてを失ったと思った私が、どうやって立ち直ったのか。 どうやって、「自分を大切にする」ということを学んだのか。
三年前の、あの春から、話を始めよう。
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第2章 日常という名の戦場
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三年前、春。
午前六時。アラームが鳴る前に、私は目を覚ました。 夜勤明けで帰宅したのが昨日の午前十時。それから眠って、今は翌朝。本来なら今日は休みのはずだけど、人手が足りないからと出勤を頼まれていた。
ベッドから起き上がろうとして、腰に鈍い痛みが走る。
「っ……」
いつものことだ。朝起きた時が一番痛い。体を動かしているうちに、少しずつ和らいでくる。 私は痛みを無視して、ゆっくりと体を起こした。
一人暮らしのワンルームマンション。六畳一間の狭い部屋に、ベッドとテーブルと小さなキッチン。窓の外には、隣のマンションの壁しか見えない。 別に、不満があるわけじゃない。仕事をして、寝て、また仕事に行く。それだけの生活に、広い部屋は必要ない。
朝食は、コンビニで買っておいたおにぎりを一つ。食欲がないわけじゃないけれど、食べる時間が惜しい。 シャワーを浴びて、髪を乾かして、制服に着替える。鏡に映った自分の顔は、目の下にクマができていた。
三十二歳。介護士になって六年目。 いつの間にか、中堅と呼ばれる立場になっていた。
*
特別養護老人ホーム「ひだまり荘」は、私鉄の駅から徒歩十五分の場所にある。 三階建ての建物に、約八十人の利用者さんが暮らしている。重度の認知症や、身体介助が必要な高齢者が多い。 私が担当しているのは、二階の「さくらユニット」。二十人の利用者さんを、日勤三人、夜勤二人の体制で見ている。
更衣室で着替えを済ませ、ナースステーションに向かう。 今日の勤務は日勤。八時から十七時までの九時間勤務だ。
「おはようございます」
「おはよう、田中さん。今日もよろしくね」
先輩の鈴木さんが、にこやかに挨拶を返してくれた。五十代のベテラン介護士。穏やかな人だけど、仕事になると頼りになる。
「昨日の夜勤、何かありましたか?」
「特に大きなことはなかったわ。ただ、山田さんが夜中に何度か起きてたみたい。『美咲ちゃんは?』って聞いてたって」
山田さん。 私の担当利用者の一人、山田ハナさん。八十二歳、認知症。 入所してきた当初は、環境の変化に戸惑って、夜中に大声を出したり、他の利用者さんとトラブルを起こしたりしていた。でも、私が担当になってから、少しずつ落ち着いてきた。
「分かりました。朝のケアの時に、声かけますね」
「お願いね。山田さん、田中さんのことすごく信頼してるから」
信頼。 その言葉が、嬉しいような、重いような、複雑な気持ちにさせる。
*
朝のケアが始まった。 利用者さんたちを起こし、着替えを手伝い、トイレに誘導し、食堂まで移動してもらう。 言葉にすると簡単だけど、実際には体力勝負だ。
「田中さん、ちょっと手伝って!」
後輩の佐藤さんの声が響く。振り向くと、車椅子から立ち上がろうとしている利用者さんを、必死に支えていた。
「今行く!」
私は駆け寄り、利用者さんの体を支えた。体重六十キロ以上ある男性利用者さん。一人で支えるのは難しい。
「大丈夫ですか、鈴木さん。ゆっくり、ゆっくり立ちましょうね」
利用者さんの名前は、鈴木太郎さん。八十五歳。脳梗塞の後遺症で、右半身に麻痺がある。 私と佐藤さんで両脇を支え、ゆっくりと立ち上がってもらう。その瞬間、腰に激しい痛みが走った。
「っ……!」
「田中さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。さ、鈴木さん、車椅子に座りましょうね」
痛みを隠して、笑顔を作る。利用者さんを不安にさせるわけにはいかない。 これが、介護の仕事だ。 自分の体の痛みより、目の前の人を優先する。それが、当たり前だと思っていた。
*
朝食の時間。食堂に二十人の利用者さんが集まる。 私は、山田さんの隣に座った。
「山田さん、おはようございます」
「あら、美咲ちゃん! おはよう!」
山田さんの顔が、ぱあっと明るくなる。この笑顔を見るたびに、疲れが少し和らぐ気がする。
「昨日の夜、よく眠れましたか?」
「うーん、どうだったかしら。あんまり覚えてないのよ」
「そうですか。今日は天気がいいから、後でお散歩に行きましょうか」
「本当? 嬉しいわ。美咲ちゃんと一緒がいいわ」
山田さんは、認知症の症状が進んでいる。短期記憶がほとんど保てず、さっき言ったことも忘れてしまう。 でも、感情は覚えている。嬉しかったこと、悲しかったこと、怖かったこと。言葉は忘れても、心は覚えている。 だから、私は山田さんとの時間を大切にしている。言葉を交わすたびに、笑顔を向けるたびに、山田さんの心に「安心」という感情を積み重ねていく。
「美咲ちゃん」
「はい?」
「美咲ちゃんは、いい子ね。いつも優しくしてくれて」
「そんなこと……私は、仕事をしてるだけですよ」
「ううん、違うわ」
山田さんは、私の手をそっと握った。
「美咲ちゃんは、本当に優しい子よ。でもね、無理しちゃダメよ。顔色、悪いわよ」
ドキリとした。 認知症で色んなことを忘れても、山田さんは人の心を読むのが上手い。私が疲れていることを、見抜いている。
「大丈夫ですよ、山田さん。私は元気です」
「本当に? 嘘ついてない?」
「本当ですよ。さ、ご飯食べましょう。今日は山田さんの好きな焼き魚ですよ」
話題を変えて、朝食の介助に戻る。 山田さんは、まだ心配そうな目で私を見ていたけれど、焼き魚を見て「美味しそう」と笑った。
大丈夫。私は大丈夫。 山田さんの心配より、山田さんの食事のほうが大事だから。
*
午前中のケアを終え、昼食の準備に入る。 その合間に、トイレで鏡を見た。 確かに、顔色が悪い。目の下のクマは濃くなっているし、頬もこけている気がする。 いつから、こんな顔になったんだろう。
肩を回すと、ゴキゴキと音がした。首を傾けると、左側に鋭い痛みが走る。腰は、もう常に重い。痛くない時がない。 湿布を貼って、痛み止めを飲んで、なんとか動いている状態。
でも、仕方ない。 人手が足りないんだから。 私が休んだら、他のスタッフに迷惑がかかる。利用者さんたちのケアの質も落ちる。 だから、無理をするしかない。
それが、介護の仕事だと思っていた。
*
午後三時。おやつの時間が終わり、利用者さんたちがそれぞれの部屋に戻る頃。 私は、山田さんの車椅子を押して、中庭に出た。
「わあ、桜が咲いてるわ!」
山田さんが、嬉しそうに声を上げる。中庭の桜の木は、七分咲きくらい。ピンクの花びらが、風に揺れている。
「綺麗ですね、山田さん」
「本当に綺麗。美咲ちゃん、私ね、昔は毎年お花見に行ってたのよ」
「そうなんですか? どこに行ってたんですか?」
「えーっと……どこだったかしら。忘れちゃった」
山田さんは、少し寂しそうに笑った。
「最近、色んなこと忘れちゃうのよ。嫌になっちゃう」
「山田さん」
私は、車椅子の前にしゃがみ込んで、山田さんの目を見た。
「忘れちゃっても、大丈夫ですよ。私が覚えてますから」
「美咲ちゃんが?」
「はい。山田さんが話してくれたこと、私、全部覚えてます。お花見に行ってたこと、ご主人と一緒に夜店で焼きそばを食べたこと、娘さんが生まれた時のこと」
山田さんの目に、涙が滲んだ。
「美咲ちゃん……」
「だから、忘れても大丈夫。私が、山田さんの思い出を預かってますから」
山田さんは、私の手をぎゅっと握った。皺だらけの、温かい手。
「ありがとう、美咲ちゃん。本当に、ありがとう」
その言葉が、私の心に沁みた。 ああ、この仕事をしていて良かった。 体は辛いけど、こうやって誰かの支えになれている。それが、私の存在価値だ。 そう、思っていた。
*
夕方、日勤の業務が終わりに近づく頃。 更衣室で着替えていると、同僚の鈴木さんが声をかけてきた。
「田中さん、ちょっといい?」
「はい、何ですか?」
「最近、無理してない?」
突然の問いかけに、私は一瞬言葉に詰まった。
「無理……ですか?」
「うん。顔色悪いし、動きも少し鈍くなってる気がして。腰、痛いんでしょ?」
図星だった。 でも、認めるわけにはいかない。
「大丈夫ですよ。ちょっと疲れてるだけです」
「本当に? 田中さん、この一ヶ月で何回休み返上して出勤した?」
「……数えてないです」
「私は数えてたわよ。八回。月の休みが八日なのに、全部出勤してる」
そう言われて、初めて気づいた。確かに、ここ一ヶ月、まともに休んでいない。 でも、仕方ない。人手が足りないんだから。
「人がいないから、仕方ないじゃないですか」
「田中さん」
鈴木さんは、真剣な目で私を見た。
「あなたが倒れたら、もっと人手が足りなくなるのよ。分かってる?」
「……」
「自分を大切にしなさい。あなたは、自分のことを後回しにしすぎ」
自分を大切に。 その言葉が、なぜか胸に引っかかった。 でも、どうすればいいか分からない。 休んだら、誰が利用者さんの世話をするの? 休んだら、誰が山田さんの話を聞いてあげるの?
「鈴木さん。私、この仕事が好きなんです」
「分かってるわよ」
「利用者さんたちの笑顔を見ると、疲れが吹き飛ぶんです。だから、大丈夫なんです」
鈴木さんは、深いため息をついた。
「……分かったわ。でも、本当に辛くなったら、ちゃんと言いなさいね。一人で抱え込まないで」
「はい。ありがとうございます」
私は頭を下げて、更衣室を出た。
*
帰り道。 駅までの道を歩きながら、鈴木さんの言葉を思い出していた。
自分を大切にしなさい。 自分のことを後回しにしすぎ。
分かってる。分かってるんだ。 でも、できない。
私は、自分以外の誰かのために生きることでしか、自分の価値を感じられない。 それは、きっと、昔からだ。
高校二年の時、母が病気で倒れた。父は単身赴任で家にいなくて、弟はまだ小学生で。結局、母の介護は、私が一人で担うことになった。 学校から帰って、母の世話をして、弟の面倒を見て、家事をして。自分の時間なんて、ほとんどなかった。 「助けて」と言えなかった。言ったところで、誰も助けてくれないと思っていたから。
二年後、母は施設に入所した。私の介護では、限界だったから。 その時、私は思った。 私は、足りなかった。私がもっと頑張れば、母は家にいられたのに。
それ以来、私は「足りない自分」を埋めるために、ずっと頑張ってきた。 誰かの役に立つことで、自分の存在価値を証明しようとしてきた。 だから、休めない。休んだら、「足りない自分」に戻ってしまう気がするから。
でも——
駅のホームで電車を待ちながら、私はふと、自分の手を見た。 荒れた手。ひび割れて、赤くなっている。ハンドクリームを塗る時間すら、惜しんできた。 この手で、どれだけの人を支えてきただろう。 この手は、いつまで動いてくれるだろう。
ふと、目眩がした。 足元がふらついて、慌てて手すりにつかまる。
大丈夫。大丈夫。ただの疲れだ。 明日も仕事がある。今日は早く寝よう。
私は、自分に言い聞かせながら、電車に乗り込んだ。
*
その夜、夢を見た。
真っ暗な部屋の中で、誰かが泣いている。 近づいてみると、それは母だった。 ベッドに横たわり、痩せ細った体で、静かに泣いている。
「お母さん」
私が声をかけると、母はゆっくりと顔を上げた。
「美咲。ごめんね。私のせいで、あなたの青春を奪ってしまって」
「そんなこと、ないよ」
「あなたは、いい子ね。でも、無理しちゃダメよ」
母の声が、山田さんの声と重なった。
「無理しちゃダメよ。顔色、悪いわよ」
はっと目が覚めた。 時計を見ると、午前三時。 体中が汗でびっしょりだった。
ベッドから起き上がろうとして、腰に激しい痛みが走る。 いつもより、ずっと痛い。 嫌な予感がした。
でも、あと五時間後には仕事だ。 今日も、山田さんが待っている。 利用者さんたちが、私を必要としている。
だから、休めない。 休むわけには、いかない。
私は痛みをこらえながら、もう一度ベッドに横たわった。 目を閉じても、眠れなかった。 体の奥から、何かが悲鳴を上げている気がした。
それでも私は、その声を無視した。 いつものように。 ずっと、そうしてきたように。
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第3章 崩壊
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その日は、夜勤だった。
十七時に出勤して、翌朝九時までの十六時間勤務。 夜勤は二人体制。私と、後輩の佐藤さん。二十人の利用者さんを、二人で見る。
出勤した時点で、すでに体は重かった。 昨日の夜からほとんど眠れていない。腰の痛みが、じくじくと続いている。 でも、今日を乗り越えれば、明日は休みだ。それだけを支えに、更衣室で制服に着替えた。
「田中さん、今日もよろしくお願いします!」
佐藤さんが、元気よく挨拶してくれる。二十三歳、入職二年目。明るくて素直な子で、利用者さんたちからも人気がある。
「よろしくね、佐藤さん。今日の夜勤、何か気をつけることある?」
「えっと、山田さんが最近夜中に起きることが多いみたいで。あと、田村さんの点滴が二十三時に終わるので、抜去をお願いされてます」
「了解。じゃあ、山田さんは私が見るね」
「ありがとうございます!」
申し送りを受け、夜勤がスタートした。
*
夕食の介助、服薬管理、就寝準備。 夜勤の前半は、やることが多い。利用者さん一人ひとりをベッドまで誘導し、着替えを手伝い、おむつを交換し、体位を整える。
二十人分。 それを、二人で行う。
九時を過ぎた頃、ようやく全員の就寝準備が終わった。 ナースステーションに戻り、記録を書き始める。 腰が、ずきずきと痛む。椅子に座っていても、痛みは消えない。
「田中さん、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
佐藤さんが、心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと腰が痛いだけ」
「え、腰ですか? 大変じゃないですか。私、もうちょっと動きますよ」
「いいよ、いいよ。佐藤さんも疲れてるでしょ。交代で仮眠取ろう。先に休んでいいよ」
「でも……」
「大丈夫だから。何かあったら起こすから」
佐藤さんは、まだ心配そうな顔をしていたけれど、「分かりました」と言って仮眠室に向かった。
一人になったナースステーションで、私は深くため息をついた。 時計を見ると、二十一時三十分。 あと十二時間。十二時間耐えれば、終わる。
記録を書きながら、定期的に巡回する。 利用者さんたちは、ほとんどが眠っている。静かな廊下に、自分の足音だけが響く。
山田さんの部屋の前で、足を止めた。 そっとドアを開けて、中を覗く。 山田さんは、ベッドの上で静かに眠っていた。穏やかな寝顔。良かった、今日は落ち着いているみたいだ。
「おやすみなさい、山田さん」
小さく呟いて、ドアを閉めた。
*
午前二時。 コールが鳴った。
山田さんの部屋だ。 私は急いで駆けつけた。
「山田さん、どうしました?」
山田さんは、ベッドの上で起き上がっていた。目が覚めてしまったらしい。
「あら、美咲ちゃん? ここ、どこ?」
認知症の症状で、場所が分からなくなることがある。特に夜中に起きた時は、混乱しやすい。
「ここは、ひだまり荘ですよ。山田さんが住んでるところです」
「ひだまり荘……? 私の家じゃないの?」
「ここが、今の山田さんの家ですよ。大丈夫、私がいますから」
山田さんの手を取り、落ち着かせようとする。 でも、山田さんは納得していない様子だった。
「帰りたいわ。家に帰りたい」
「山田さん……」
「お父さんが待ってるの。帰らなきゃ」
お父さん、というのは、山田さんの亡くなったご主人のことだ。十年以上前に他界しているけれど、山田さんはそれを忘れている。
「山田さん、今は夜中なんです。明るくなってから、お話ししましょう」
「嫌よ。今すぐ帰るの」
山田さんは、ベッドから降りようとした。 慌てて支える。
「山田さん、危ないですよ。一人で歩くと転んじゃいます」
「離して! 帰るの!」
山田さんが、私の手を振り払おうとする。 その拍子に、バランスを崩した。
「山田さん!」
とっさに、山田さんの体を抱き留めた。 その瞬間——
腰に、今まで感じたことのない激痛が走った。
「っ……!!」
声にならない悲鳴が漏れた。 目の前が、一瞬真っ白になる。
でも、山田さんを離すわけにはいかない。 転んだら、骨折するかもしれない。高齢者の骨折は、命に関わることもある。
私は歯を食いしばって、山田さんをベッドまで連れ戻した。
「山田さん、大丈夫ですか? 怪我してませんか?」
「……美咲ちゃん?」
山田さんは、きょとんとした顔で私を見た。さっきまでの興奮が、嘘のように消えている。
「美咲ちゃん、顔が真っ白よ。大丈夫?」
大丈夫じゃない。 全然、大丈夫じゃない。 腰が、燃えるように痛い。足に力が入らない。
でも——
「大丈夫ですよ、山田さん。それより、山田さんは横になってください。朝まで、ゆっくり休みましょう」
「……美咲ちゃん、無理してない?」
「してませんよ。さ、横になって」
山田さんをベッドに寝かせ、布団をかける。 山田さんは、まだ心配そうな目で私を見ていたけれど、やがて目を閉じた。
私は、部屋を出た。 廊下に出た瞬間、壁に手をついた。 立っているのがやっとだった。
腰が、動かない。 一歩踏み出そうとするたびに、電撃のような痛みが走る。
まずい。これは、まずい。 でも、あと六時間。六時間耐えれば、夜勤が終わる。 それまで、なんとか持ちこたえないと。
私は壁に手をつきながら、ゆっくりとナースステーションに戻った。
*
午前五時。 空が、うっすらと明るくなり始めた頃。 もう、限界だった。
椅子に座っていることすらできない。 立ち上がることもできない。 腰から下が、自分のものではないみたいだ。
「田中さん!?」
仮眠から戻ってきた佐藤さんが、私を見て悲鳴を上げた。
「田中さん、大丈夫ですか!? 顔、真っ青ですよ!」
「佐藤さん……ごめん……ちょっと、動けなくて……」
「え、動けない? どういうことですか?」
「腰が……腰が動かないの……」
佐藤さんの顔が、青ざめた。
「救急車、呼びましょう!」
「待って……利用者さんたちの朝のケアが……」
「そんなこと言ってる場合じゃないです! 日勤の人たちに連絡します! 田中さんは動かないでください!」
佐藤さんが、慌ただしく動き始める。 私は、椅子に座ったまま、動けなかった。
ああ、ついに壊れたんだ。 私の体は、ついに限界を迎えたんだ。
*
救急車で運ばれた病院で、MRI検査を受けた。 結果は、「腰椎椎間板ヘルニア」。
「田中さん、椎間板がかなり飛び出しています。神経を圧迫している状態です」
医師は、モニターに映ったMRI画像を指しながら説明した。 私には、何がなんだか分からなかった。ただ、「重症」ということだけは理解できた。
「全治三ヶ月……いや、完全に回復するには半年以上かかるかもしれません」
「半年……」
「当面は、絶対安静です。仕事は、最低でも三ヶ月は休んでいただく必要があります」
三ヶ月。 その言葉が、頭の中でぐるぐると回った。
「先生、私、仕事があるんです。利用者さんたちが待ってるんです」
「田中さん」
医師は、厳しい目で私を見た。
「このまま無理を続けたら、一生歩けなくなる可能性もあります。分かりますか? 一生です」
「……」
「今は、休むことがあなたの仕事です。体を治すことに、専念してください」
休むことが、仕事。 その言葉が、胸に突き刺さった。
*
一週間後。 私は施設長の木村さんと面談していた。 まだ腰は痛むけれど、なんとか歩けるようになっていた。
「田中さん、診断書を見ました。三ヶ月の休職が必要、とのことですね」
「はい……ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「迷惑だなんて。それより、体のほうが心配よ」
木村さんは、穏やかな声で言った。
「田中さん、前々から気になってたの。あなた、無理しすぎてた」
「……」
「休みを返上して出勤したり、体調悪そうなのに夜勤に入ったり。周りのスタッフも、心配してたのよ」
知っていた。鈴木さんにも言われた。 でも、止められなかった。
「木村さん。私、山田さんのことが……」
「山田さんは、大丈夫よ。他のスタッフがちゃんと見るから」
「でも、山田さん、私のことを……」
「田中さん」
木村さんは、真剣な目で私を見た。
「あなたが倒れたら、誰が利用者さんを支えるの?」
医師と、同じことを言われた。
「あなたは、自分を犠牲にしすぎなのよ。それは、優しさじゃない。自分を壊してまで誰かを支えようとするのは、長く続かないの」
「……」
「今は、自分のことだけ考えて。体を治して、元気になってから戻ってきて。みんな、待ってるから」
木村さんの言葉に、涙が溢れそうになった。 でも、泣くわけにはいかない。 まだ、受け入れられていなかった。
三ヶ月も休む。 その間、私は何をすればいいの? 誰の役にも立てない私は、どうやって生きていけばいいの?
*
休職が決まった日の夜。 私は、アパートの部屋で一人、天井を見つめていた。
腰が痛くて、仰向けにしか寝られない。 天井の染みを数えながら、ぼんやりと考える。
私は、何のために生きているんだろう。
介護の仕事が好きだった。 利用者さんたちの笑顔を見るのが好きだった。 誰かの役に立っている、という実感が、私の支えだった。
でも、それがなくなったら? 仕事ができなくなったら、私には何が残るの?
母の介護をしていた頃のことを、思い出す。 高校二年から、二年間。毎日、母の世話をしていた。 「助けて」と言えなかった。言ったところで、誰も助けてくれないと思っていたから。 一人で抱え込んで、一人で頑張って、でも結局、母を施設に入れることになった。
あの時、私は思った。 私は、足りなかった。私がもっと頑張れば、母は家にいられたのに。
それ以来、私は「足りない自分」を埋めるために、ずっと頑張ってきた。 誰かの役に立つことで、自分の存在価値を証明しようとしてきた。
でも、体が壊れた。 もう、頑張れない。
じゃあ、私は……私は、何のために生きていればいいの?
涙が、一筋、頬を伝った。 止められなかった。
私は、天井を見つめながら、声を殺して泣いた。 誰にも聞かれないように。 一人で。
*
山田さんに、会いたかった。 でも、会いに行く気力がなかった。
この姿を、見せたくなかった。 ボロボロになった自分を、山田さんに見せたくなかった。
「美咲ちゃん、無理しちゃダメよ」
山田さんの声が、頭の中で響く。
分かってるよ、山田さん。 でも、無理しないで生きる方法が、私には分からないんだ。
誰かのために頑張ることでしか、自分の価値を感じられない。 それが、私という人間なんだ。
でも、それが壊れた。
私は——
私は、どうすればいいの?
*
それから、一ヶ月が過ぎた。 体は、少しずつ回復していった。腰の痛みは和らぎ、日常生活には支障がなくなった。
でも、心は回復しなかった。
毎日、アパートの部屋で過ごす。 テレビを見る気力もない。本を読む気力もない。 ただ、ベッドに横たわって、天井を見つめている。
時々、スマホに通知が来る。 施設の同僚からのLINE。「元気ですか?」「早く良くなってね」。 返事を打つ気力がない。既読だけつけて、画面を閉じる。
山田さんは、元気だろうか。 私がいなくても、ちゃんと過ごせているだろうか。 私のことを、まだ覚えているだろうか。
会いたい。でも、会えない。 今の私には、山田さんに笑顔を向ける余裕がない。
私は、何もできない。 誰の役にも立てない。 生きている意味が、分からない。
そんな日々が、続いていた。
*
ある日の午後。 スマホが鳴った。 知らない番号からの着信。
出る気力がなくて、無視した。 でも、すぐにまた鳴った。 同じ番号。
仕方なく、電話に出た。
「……はい」
「美咲ちゃん? 久しぶり!」
明るい女性の声。 聞き覚えのある声だった。
「……誰ですか?」
「ひどいなあ。香織だよ、高橋香織。覚えてない?」
高橋香織。 その名前を聞いて、記憶が蘇った。
「香織さん……? 香織先輩ですか?」
「そうそう! 久しぶりー! 元気?」
高橋香織さん。 私がひだまり荘に入職した時の先輩。四十二歳。 十年前に、同じように体を壊して退職した人だった。
「香織先輩、どうして私の番号……」
「木村さんに聞いたの。美咲ちゃんが休職したって聞いて、心配で」
「……」
「ねえ、今度会えない? 話したいことがあるの」
会う。 今の私が、誰かに会う。 それは、とても辛いことのように思えた。
「……すみません、今はちょっと……」
「大丈夫、無理しなくていいよ。でもね、美咲ちゃん」
香織先輩の声が、少し真剣になった。
「一人で抱え込まないで。私、あなたの気持ち、分かるから」
私の気持ちが、分かる? そんなの、分かるわけない。 私の苦しみは、私だけのものだ。
でも——
「私もね、十年前、同じだったの。体を壊して、仕事ができなくなって、生きてる意味が分からなくなった」
同じ。 香織先輩も、同じだった?
「でも、立ち直れたの。だから、美咲ちゃんも大丈夫。必ず、立ち直れる」
「……」
「来週の土曜日、空いてる? カフェでお茶しよう。美咲ちゃんに、渡したいものがあるの」
渡したいもの? 何だろう。
「……分かりました」
気がついたら、そう答えていた。
「本当? 嬉しい! じゃあ、また連絡するね!」
電話が切れた。 私は、スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
香織先輩。 十年前に、私と同じように体を壊した人。 その人が、「立ち直れる」と言っている。
本当だろうか。 今の私に、そんなことが可能なんだろうか。
分からない。 でも、少しだけ、光が見えた気がした。
*
来週、香織先輩に会う。 渡したいものがある、と言っていた。
それが何なのか、私にはまだ分からない。 でも、もしかしたら——
もしかしたら、そこに答えがあるのかもしれない。
私が、もう一度立ち上がるための。 私が、もう一度生きていくための。 答えが。
══════════════════
第4章 再会
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約束の土曜日。 私は、駅前のカフェに向かっていた。
外出するのは、何週間ぶりだろう。 病院に行く時以外、ほとんど部屋から出ていなかった。 久しぶりの太陽の光が、眩しかった。
カフェに着くと、香織先輩はすでに席についていた。 窓際のテーブルで、コーヒーを飲みながら、スマホをいじっている。
「香織先輩」
「あ、美咲ちゃん! 久しぶり!」
香織先輩は、立ち上がって私を迎えてくれた。 四十二歳。十年前に会った時よりも、少し太ったかもしれない。でも、笑顔は変わらない。明るくて、エネルギッシュで、周りを元気にする人。
「座って座って。何飲む? 私、おごるよ」
「いえ、自分で……」
「いいからいいから。今日は私が呼び出したんだから」
香織先輩は、ウェイトレスを呼んで、私の分のコーヒーを注文してくれた。
席についてから、改めて香織先輩の顔を見る。 十年前、ひだまり荘を辞めた時の香織先輩は、今の私と同じような顔をしていた気がする。疲れ切って、生気のない顔。 でも、今の香織先輩は、全然違う。肌にツヤがあって、目がキラキラしている。
「美咲ちゃん、痩せたね。ちゃんと食べてる?」
「……あんまり食欲なくて」
「そっか。私もそうだったよ、十年前」
香織先輩は、懐かしそうに言った。
「体を壊して、仕事ができなくなって。何もかも嫌になって、食欲もなくなった。毎日、天井ばっかり見てた」
私と、同じだ。 本当に、同じだったんだ。
「でも、立ち直れたんですね」
「うん。時間はかかったけどね」
香織先輩は、コーヒーを一口飲んだ。
「きっかけがあったの。あるものに、出会って」
「あるもの?」
「うん。今日、それを渡そうと思って」
香織先輩は、足元に置いていた紙袋を持ち上げた。 黒い紙袋。中に何か入っている。
「はい、これ」
「え……何ですか?」
「開けてみて」
言われるままに、紙袋を開けた。 中には、黒いTシャツが入っていた。 一見、普通のTシャツ。でも、よく見ると、胸や背中に何かプリントされている。
「Tシャツ……ですか?」
「ただのTシャツじゃないよ。これ、着るだけで体が楽になるの」
「え?」
意味が分からなかった。 着るだけで、体が楽になる? そんなことが、あるわけない。
「怪しいって思ってるでしょ」
香織先輩は、笑った。
「私も最初はそう思った。でもね、騙されたと思って着てみて」
「でも、こんな高そうなもの……」
「いいの。これ、私からのプレゼント。っていうか、恩送りかな」
「恩送り?」
「うん。私もね、十年前、これを誰かにもらったの。それで、立ち直れた。だから、同じように苦しんでる人に渡したいと思って」
香織先輩の目が、真剣になった。
「美咲ちゃん。あなたは今、すごく辛いと思う。体が動かなくて、仕事ができなくて、自分の存在価値が分からなくなってる」
「……」
「私も、そうだったの。十年前、体を壊して、ひだまり荘を辞めた時。生きてる意味が分からなくなった」
香織先輩の言葉が、胸に沁みた。 私の気持ちを、本当に分かってくれている。
「でもね、立ち直れたの。このシャツのおかげで」
「シャツの……おかげ?」
「うん。体が楽になると、心も楽になるの。そしたら、少しずつ前を向けるようになる」
私は、手の中のシャツを見つめた。 黒いシャツ。特別なものには見えない。 でも、香織先輩がこんなに真剣に勧めてくれるということは、何かあるのかもしれない。
「美咲ちゃん、このシャツを作った人の話、聞いてくれる?」
「作った人……ですか?」
「うん。この人の話を聞いたら、きっと分かると思う。なぜこのシャツが生まれたのか」
*
香織先輩は、コーヒーを飲みながら、ゆっくりと話し始めた。
「このシャツを作ったのは、佐々木貴史さんっていう人。宮城県仙台市の人なんだけどね」
「仙台……」
「佐々木さんはね、子供の頃から体が弱かったの。大人になってからも、体を壊して仕事を辞めたり、いろんな苦労をしてきた人」
体が弱い。 それは、私とは違う。私は、体力には自信があった。だから、無理を続けられた。 でも、結果は同じだ。体を壊した。
「佐々木さんには、妹さんがいるの。その妹さん、介護士だったんだって」
「介護士……」
「うん。でもね、介護の仕事って、体を使うでしょ? 妹さん、毎日お年寄りを抱き起こしたり、ベッドから車椅子に移動させたりしてて。体が悲鳴を上げて、三年で辞めざるを得なくなったの」
三年。 私は、六年だった。 でも、同じだ。介護の仕事で、体を壊した。
「佐々木さんはね、妹さんのことがすごく辛かったんだって。志を持って介護の仕事についたのに、体を壊して辞めることになって。その姿を見て、何とかしたいと思った」
「……」
「それで、佐々木さんは考えたの。介護士の体を楽にする方法はないかって。何年も研究して、試行錯誤して。そして、このシャツを作った」
香織先輩は、私の手の中のシャツを指さした。
「このシャツにはね、特殊な鉱石が練り込まれてるの。それが体のツボを刺激して、血行を良くしたり、筋肉を楽にしたりするんだって」
「鉱石……?」
「正直、私も仕組みはよく分からない。でも、効果は実感できた。着てみれば分かるよ」
私は、シャツを見つめた。 特殊な鉱石。体のツボ。血行促進。 怪しい。正直、怪しすぎる。
でも——
「佐々木さんはね、こう言ってたの」
香織先輩は、真剣な目で私を見た。
「『頑張る人ほど、自分の体を後回しにする。でも、それは優しさじゃない。自分を整えることで、もっと多くの人を支えられる。それが本当の優しさなんです』って」
その言葉が、胸に突き刺さった。
頑張る人ほど、自分の体を後回しにする。 それは、まさに私のことだ。
でも、それは優しさじゃない? 自分を整えることが、本当の優しさ?
意味が、よく分からなかった。 私は、自分を犠牲にすることでしか、誰かを支えられないと思っていた。 それが、間違いだったということ?
「美咲ちゃん」
香織先輩が、私の手を握った。
「騙されたと思って、着てみて。一週間でいいから。それで何も変わらなかったら、私に文句言っていいから」
「……」
「私はね、このシャツで人生が変わった。だから、あなたにも試してほしい」
香織先輩の目は、真剣だった。 嘘を言っているようには見えない。
「……分かりました」
気がついたら、そう答えていた。
「本当に? 嬉しい!」
香織先輩の顔が、ぱあっと明るくなった。
「きっと大丈夫。美咲ちゃんも、立ち直れるから」
*
帰り道、紙袋を抱えながら歩いた。 中には、あの黒いシャツが入っている。
着るだけで、体が楽になる。 そんなこと、本当にあるんだろうか。
でも、香織先輩は嘘をつくような人じゃない。 十年前に同じように体を壊して、でも立ち直って、今は元気に生きている。 その人が、「人生が変わった」と言っている。
信じてみようか。 少なくとも、着てみるだけなら、失うものはない。
アパートに戻り、部屋の電気をつける。 いつもの、薄暗い部屋。カーテンを閉め切って、昼間でも薄暗い部屋。
紙袋からシャツを取り出す。 広げてみると、普通のTシャツに見える。黒くて、シンプルで。 でも、よく見ると、胸のあたりに何かプリントされている。小さな点のようなものが、いくつも。
これが、鉱石なのかな。 触ってみると、普通の布地と変わらない感触だった。
「……着てみるか」
独り言を呟いて、今着ているパジャマを脱いだ。 シャツを頭から被って、腕を通す。 サイズは、ぴったりだった。香織先輩、私の体型を覚えていたのかな。
着た瞬間——
何も変わらなかった。 当たり前だ。着ただけで何かが変わるわけない。
少し落胆しながら、ベッドに横たわった。 腰は、相変わらず重い。完全には治っていない。
でも、香織先輩は「一週間」と言っていた。 一週間、着続けてみよう。 それで何も変わらなかったら、やっぱり気のせいだったんだと思えばいい。
目を閉じる。 今日は、少しだけ疲れた。久しぶりに外出して、人と話したから。 でも、悪い疲れじゃない。
香織先輩と話して、少しだけ気持ちが軽くなった気がする。 私と同じように苦しんで、でも立ち直った人がいる。 それが、小さな希望になっている。
明日も、このシャツを着てみよう。 そう思いながら、私は眠りについた。
*
翌朝。 目が覚めて、最初に感じたのは——
「あれ……?」
体が、軽い。 いつもなら、朝起きた時が一番辛いはずなのに。 腰の重さが、少し和らいでいる気がする。
気のせいかもしれない。 たまたま、よく眠れただけかもしれない。
でも、久しぶりに、すっきりと目が覚めた。 目覚ましが鳴る前に、自然と目が開いた。
ベッドから起き上がる。 いつもなら、起き上がるだけで腰に痛みが走るのに。 今日は、それがほとんどない。
「……偶然、かな」
でも、少し嬉しかった。 久しぶりに、朝が辛くなかった。
シャツを着たまま、朝食を取る。 いつもは食欲がなくて、コンビニのおにぎりを一つ食べるのがやっとだったのに。 今日は、なぜか、ちゃんとした朝食を作りたくなった。
冷蔵庫を開ける。卵がある。パンがある。 目玉焼きを焼いて、トーストを焼いて、コーヒーを淹れる。
テーブルについて、朝食を食べる。 美味しい。 久しぶりに、「美味しい」と思った。
これは、シャツの効果なのかな。 それとも、香織先輩と話したことで、気持ちが前向きになったからかな。 分からない。 でも、悪くない。
食後、窓を開けてみた。 外の空気が、部屋に入ってくる。 春の匂い。桜の季節が、終わりかけている。
何週間も、カーテンを閉め切っていた。 外の世界を見るのが、怖かったから。 みんな普通に生きているのに、私だけが取り残されている気がして。
でも、今日は、外を見てもいいと思えた。 少しだけ、でも確実に、何かが変わり始めている気がした。
*
一週間が過ぎた。 毎日、あのシャツを着続けた。
日に日に、体が楽になっていくのを感じた。 腰の痛みは、完全には消えていない。でも、以前のような鋭い痛みはなくなった。 朝起きるのが、辛くなくなった。 食欲が、戻ってきた。 外出する気力が、少しずつ湧いてきた。
プラシーボ効果かもしれない。 香織先輩の言葉を信じたから、効いた気がしているだけかもしれない。 でも、結果として、体は楽になっている。 それは、事実だ。
一週間後の土曜日、香織先輩に電話をした。
「香織先輩、あのシャツ、すごいです」
「でしょ! 効果あった?」
「はい。腰の痛みが、かなり楽になりました。朝起きるのも、前より全然楽で」
「良かったー! 私も同じだったから、きっと効くと思ってたんだ」
「でも、なんで効くんでしょう。仕組みがよく分からなくて」
「私もよく分かんないけど、佐々木さん曰く、『気』の流れを整えるんだって。中国武術の考え方が元になってるらしいよ」
気の流れ。 正直、スピリチュアルな話は苦手だ。 でも、効果が出ているなら、仕組みはどうでもいいのかもしれない。
「香織先輩。私、もっと佐々木さんのこと、知りたいです」
「え、本当?」
「はい。どんな人が、なぜこのシャツを作ったのか。もっと詳しく知りたい」
「じゃあ、今度会った時に、もっと詳しく話すね。佐々木さんの本とか、インタビュー動画とか、いろいろあるから」
「ありがとうございます」
電話を切った後、私は窓の外を見た。 青い空。白い雲。 久しぶりに、空が綺麗だと思った。
体が楽になると、心も楽になる。 香織先輩の言葉が、少しずつ理解できてきた。
私は、体が壊れたから、心も壊れたんだ。 だから、体を治せば、心も治るのかもしれない。
まだ、完全には立ち直れていない。 仕事に復帰できるかどうか、分からない。 山田さんに会えるかどうかも、分からない。
でも、少しだけ、希望が見えてきた。 佐々木さんという人が、妹のために作ったシャツ。 その物語を、もっと知りたいと思った。
きっと、そこに答えがある。 私が、もう一度立ち上がるための答えが。
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第5章 変化
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シャツを着始めて、三週間が過ぎた。
体の変化は、確実に感じられた。 腰の痛みは、ほとんど気にならなくなった。まだ完全ではないけれど、日常生活には支障がない。 肩こりも、軽くなった。首を回しても、あのゴキゴキという嫌な音がしない。 そして何より、朝起きるのが楽になった。
以前は、朝目覚めた瞬間から疲れていた。 「また一日が始まる」という憂鬱な気持ちで、ベッドから出るのに三十分以上かかることもあった。 でも今は、目覚めた瞬間に「よし、起きよう」と思える。 たったそれだけのことが、こんなにも大きな変化だとは思わなかった。
*
ある朝、私は久しぶりに散歩に出かけた。 アパートの近くに、小さな公園がある。子供たちが遊ぶ遊具と、ベンチがいくつかあるだけの、何の変哲もない公園。 でも、そこに行くのは、何ヶ月ぶりだろう。
朝の公園は、静かだった。 平日の午前中だから、子供たちはいない。代わりに、犬を散歩させているおじいさんや、ベンチで新聞を読んでいるおばあさんがいる。
私は、空いているベンチに座った。 五月の風が、頬を撫でる。気持ちがいい。
目を閉じて、深呼吸をする。 春の匂い。土の匂い。遠くから聞こえる鳥の声。
ああ、世界はこんなにも穏やかだったんだ。 私が部屋に閉じこもっている間も、世界は変わらずここにあった。
「隣、いいかしら」
声をかけられて、目を開けた。 七十代くらいのおばあさんが、ベンチの隣を指さしている。
「あ、はい、どうぞ」
「ありがとう」
おばあさんは、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。 白髪を後ろで束ねて、花柄のブラウスを着ている。穏やかな雰囲気の人だった。
「いい天気ね」
「そうですね」
「あなた、この辺の人? 前は見かけなかったけど」
「いえ、すぐそこのアパートに住んでます。最近、あまり外に出てなかったので……」
「そう」
おばあさんは、にっこりと笑った。
「若いのに、もったいないわね。こんないい天気なのに」
「そうですね……」
私は、苦笑した。 確かに、もったいなかった。こんなにいい天気の日に、部屋に閉じこもっているなんて。
「私はね、毎朝ここに来るの。朝の空気を吸うと、元気が出るのよ」
「毎朝……すごいですね」
「習慣にしちゃえば、大したことないわよ。むしろ、来ないと気持ち悪くなっちゃう」
習慣。 私には、そういうものがなかった。 仕事以外の、自分のための習慣。
「あなたも、毎朝来たらいいわ。若い人が来ると、私たちも嬉しいから」
「……そうですね、来てみます」
「約束よ」
おばあさんは、私の手をぽんと叩いた。 温かい手。山田さんの手を思い出した。
*
その日から、私は毎朝公園に行くようになった。 最初は十分くらい。ベンチに座って、空を見上げて、深呼吸をする。それだけ。 でも、それが日課になった。
おばあさん——田辺さんという名前だと後で知った——とも、顔を合わせるようになった。 「おはよう」と挨拶を交わし、天気の話をして、また明日。 それだけの関係だけど、なぜか心が温かくなった。
人と話すって、こういうことだったんだ。 仕事で利用者さんと話すのとは、違う。 ただ、同じ時間を共有する。それだけで、孤独が薄れていく。
体が動くようになると、やりたいことが増えてきた。 部屋の掃除をした。何週間も放置していた洗濯物を片付けた。 スーパーに買い物に行って、ちゃんとした料理を作った。 本屋に行って、小説を買った。久しぶりに、物語を読みたいと思った。
少しずつ、少しずつ、日常が戻ってきている。 それが、嬉しかった。
*
シャツを着始めて、一ヶ月が過ぎた頃。 私は、香織先輩とまたカフェで会っていた。
「美咲ちゃん、顔色良くなったね!」
「ありがとうございます。おかげさまで」
「シャツ、ちゃんと着てる?」
「はい、毎日。もう手放せないです」
香織先輩は、嬉しそうに笑った。
「良かった。私もそうだったから、分かるよ。体が楽になると、心も楽になるって」
「本当ですね。最初は信じられなかったけど、今は実感してます」
「それでね、今日は美咲ちゃんに見せたいものがあるの」
香織先輩は、スマホを取り出した。 画面をいじって、何かの動画を再生する。
「これ、佐々木さんが出てる動画。ビジネス系のYouTube番組なんだけど」
画面には、スーツを着た男性たちが並んでいた。 その前に、一人の男性が立っている。六十代くらい。白髪交じりの髪、穏やかな表情。
「これが、佐々木さん?」
「そう。この番組で、投資家の人たちにプレゼンしたの。で、全員から投資をもらえたんだって」
動画の中で、佐々木さんが話し始めた。
『私がこのシャツを作ったのは、妹のためでした』
佐々木さんの声は、穏やかだった。でも、芯がある。
『妹は介護士でした。毎日、お年寄りを抱き起こしたり、車椅子に移動させたり。体を酷使する仕事です。でも、妹は文句一つ言わず、頑張っていました』
私は、画面に見入った。 介護士だった妹。それは、私と同じだ。
『でも、三年で限界が来ました。腰を壊して、もう働けなくなった。志を持って始めた仕事なのに、体が壊れて辞めることになった。その姿を見て、私は何とかしたいと思いました』
佐々木さんの目に、涙が滲んでいるように見えた。
『私は、体が弱い人間でした。だから、体の辛さは分かる。頑張りたいのに、体がついていかない。その苦しみは、よく知っています』
『だから、私は考えました。体を楽にする方法はないか。着るだけで、体をサポートできるものは作れないか。何年も研究して、試行錯誤して、やっとできたのがこのシャツです』
佐々木さんは、手に持っていたシャツを掲げた。 私が今着ているのと、同じシャツだ。
『このシャツは、私の人生の集大成です。これを世界中に届けて、体の辛さに苦しんでいる人を助けたい。それが、私の使命だと思っています』
動画が終わった。 私は、しばらく言葉が出なかった。
「……すごい人ですね」
「でしょ? 私もこの動画を見て、感動したの」
「妹さんのために、人生をかけて……」
「佐々木さんはね、こうも言ってたの」
香織先輩は、スマホをしまいながら言った。
「『頑張る人ほど、自分を後回しにする。でも、それは本当の優しさじゃない。自分を整えることで、もっと多くの人を支えられる』って」
その言葉を、私は前にも聞いた。 でも、今聞くと、前とは違う意味で胸に響く。
「自分を整えることで、もっと多くの人を支えられる……」
「そう。自分を犠牲にして誰かを支えても、長くは続かない。体が壊れたら、支えられる人がゼロになっちゃう。でも、自分を大切にしながら支えれば、長く続けられる。結果的に、もっと多くの人を助けられる」
私は、香織先輩の言葉を噛みしめた。
私は、自分を犠牲にすることでしか、誰かを支えられないと思っていた。 自分の体を削って、時間を削って、心を削って。それが、介護の仕事だと思っていた。 でも、結果はどうだった? 体が壊れて、仕事ができなくなって、山田さんのそばにもいられなくなった。
もし、自分を大切にしていたら? もし、体が悲鳴を上げた時に、ちゃんと休んでいたら? 今も、山田さんのそばにいられたかもしれない。
「香織先輩」
「うん?」
「私、間違ってたのかもしれません」
「何が?」
「自分を犠牲にすることが、優しさだと思ってました。でも、それは違った。自分を壊してしまったら、結局誰も支えられなくなる」
香織先輩は、静かに頷いた。
「美咲ちゃん、気づいたんだね」
「はい……今さらですけど」
「今さらなんかじゃないよ。気づけたことが大事なの」
香織先輩は、私の手を握った。
「私もね、十年かかったの。自分を大切にしていいんだって、分かるまで。美咲ちゃんは、一ヶ月で気づけた。すごいことだよ」
「でも、もう遅いかもしれない。体は壊れちゃったし、山田さんにも会えてないし……」
「遅くないよ」
香織先輩は、きっぱりと言った。
「美咲ちゃん、体は回復してきてるでしょ? 心も、少しずつ元気になってきてる。それなら、まだ間に合う」
「間に合う……?」
「うん。山田さんに、また会えるよ。ひだまり荘に、また戻れるよ。諦めないで」
諦めないで。 その言葉が、心に沁みた。
私は、諦めかけていた。 体が壊れて、もう介護の仕事には戻れないと思っていた。 でも、香織先輩は「戻れる」と言っている。
「香織先輩は、戻ったんですか? 介護の仕事に」
「私は……ちょっと違う形になったけどね」
香織先輩は、少し照れくさそうに笑った。
「今は、介護施設のコンサルタントをしてるの。現場には立ってないけど、介護の仕事には関わってる」
「コンサルタント……」
「体を壊した経験があるから、現場の人の気持ちが分かるの。どうすれば体に負担をかけずに働けるか、どうすればスタッフが長く続けられるか。そういうアドバイスをしてる」
香織先輩の目が、輝いている。 自分の経験を、誰かのために活かしている。 それが、香織先輩の「再生」の形なんだ。
「私も……また、介護の仕事ができるかな」
「できるよ。きっとできる」
香織先輩は、力強く言った。
「美咲ちゃんは、利用者さんのことを本当に大切に思ってるでしょ? そういう人が、介護の現場には必要なの。だから、諦めないで」
私は、深く頷いた。
諦めない。 まだ、終わりじゃない。 体を治して、心を整えて、また山田さんに会いに行く。 そのために、今は自分を大切にする。
それが、本当の優しさなんだ。
*
カフェを出た後、私は一人で街を歩いた。 久しぶりに、目的もなく歩く。 ウィンドウショッピングをしたり、本屋に立ち寄ったり。
以前の私なら、「時間の無駄」と思っていただろう。 仕事に関係ないことに、時間を使うなんてもったいない。そう思っていた。
でも、今は違う。 こうやって、のんびり歩くことも大切なんだ。 自分を整える時間。心を休める時間。 それがあるから、また頑張れる。
本屋で、一冊の本を見つけた。 介護士の体験記。仕事で燃え尽きかけた介護士が、どうやって立ち直ったかを綴った本。
手に取って、パラパラとページをめくる。 著者の経験が、私と重なる部分がたくさんあった。
この本を、読んでみよう。 同じように苦しんで、でも立ち直った人の話を、もっと知りたい。
レジで本を買い、アパートに戻った。 部屋に入ると、窓から夕日が差し込んでいた。 オレンジ色の光が、部屋を染めている。
ベッドに腰を下ろし、買ってきた本を開く。 最初のページに、こう書いてあった。
『自分を大切にすることは、自分勝手なことではありません。自分を大切にできる人だけが、本当の意味で他者を大切にできるのです』
その言葉を、心に刻んだ。
私は、変わり始めている。 体だけじゃない。心も、考え方も。 少しずつ、少しずつ、新しい自分になっている。
そしていつか—— また、山田さんに会いに行く。 「おかえり」と言ってもらえる日を目指して。
私は、本を読み続けた。 夕日が沈み、部屋が暗くなっても、読み続けた。 一人じゃない。同じように苦しんで、でも立ち直った人がいる。 その事実が、私に力をくれた。
══════════════════
第6章 物語
══════════════════
シャツを着始めて、二ヶ月が過ぎた。
体の調子は、すっかり良くなっていた。 腰の痛みは、もうほとんど感じない。医師からも「順調に回復している」と言われた。 日常生活は、問題なく送れるようになった。
でも、まだ仕事には復帰していない。 「もう少し様子を見ましょう」と医師に言われているのもあるけれど、それだけじゃない。 心の準備が、まだできていなかった。
また同じことを繰り返すんじゃないか。 また体を壊すんじゃないか。 その恐怖が、まだ消えていなかった。
*
ある日の夜、私はパソコンに向かっていた。 香織先輩に教えてもらった、佐々木さんの動画を探していた。
検索すると、たくさんの動画が出てきた。 インタビュー、講演、テレビ出演。佐々木さんは、いろんなところで話をしている。
その中で、一つの動画が目に留まった。 「開発者が語る、あのシャツの誕生秘話」というタイトル。 再生時間は四十分。長いけど、見てみることにした。
動画の中で、佐々木さんは穏やかな声で話し始めた。
『私は、子供の頃から体が弱かったんです。学校も休みがちで、家で寝ていることが多かった。友達と遊ぶこともあまりできなくて、将棋とか、一人でできる趣味に没頭していました』
佐々木さんの目が、遠くを見ている。
『大人になって、システム会社に就職しました。でも、数年で体を壊して退職。普通に会社員として働くことが、私にはできなかった』
体を壊して退職。 私と、同じだ。
『それから、自営業を始めました。いろんなことをやりましたね。相続支援、営業コンサル、飲食店経営、建築検査……。体が弱いなりに、できることを探し続けました』
『でも、どれも長続きしなかった。体が追いつかなかったり、うまくいかなかったり。何度も何度も、挫折しました』
佐々木さんの声に、苦い響きがあった。 たくさんの失敗を、経験してきたんだ。
『五十五歳の時、転機が訪れました。ある人に「志を立てることの大切さ」を教えられたんです。自分は何のために生きているのか。何を成し遂げたいのか。それを真剣に考えるようになりました』
『その時、思い出したんです。妹のことを』
佐々木さんの目に、涙が滲んだ。
『妹は、介護士でした。体を使う仕事です。毎日、お年寄りを抱き起こしたり、車椅子に移動させたり。大変な仕事ですが、妹は誇りを持ってやっていました』
『でも、三年で限界が来ました。腰を壊して、もう働けなくなった。志を持って始めた仕事なのに、体が壊れて辞めることになった』
妹さんの話を聞いて、私の目からも涙が溢れた。 三年。私は六年だった。でも、結果は同じ。 体を壊して、辞めることになった。
『妹が泣いていたんです。「もっとやりたかった」「利用者さんたちのそばにいたかった」って。その姿を見て、私は決めました。妹のような人を、もう出さない。介護士の体を守る方法を、何としても見つけると』
『それから、研究を始めました。中国武術や気功の知識を活かして、体を楽にする方法を探しました。何年もかかりましたが、やっと完成したのがこのシャツです』
佐々木さんは、シャツを掲げた。
『このシャツには、私の人生のすべてが詰まっています。体が弱かった私だから分かること。妹の悔し涙。介護士さんたちの苦労。全部、このシャツに込めました』
『だから、このシャツを世界中に届けたい。体の辛さに苦しんでいる人を、一人でも多く助けたい。それが、私の使命です』
動画が終わった。 私は、パソコンの前で泣いていた。
*
佐々木さんの物語は、私の物語と重なっていた。
体が弱くて、何度も挫折して。 でも、諦めずに、自分にできることを探し続けて。 そして、誰かのために生きることを選んだ。
妹さんのことを思う気持ち。 介護士を助けたいという志。 それが、このシャツを生み出した。
私は、このシャツを着ている。 佐々木さんの想いが詰まったシャツを。
そう思うと、シャツがただの布じゃなくて、誰かの祈りのように感じられた。 「体の辛さに苦しんでいる人を助けたい」という、切実な祈り。
私も、同じ想いを持っていた。 介護の仕事を始めた時、「誰かの役に立ちたい」と思っていた。 利用者さんたちの笑顔を見るたびに、この仕事を選んで良かったと思っていた。
でも、いつの間にか、その想いは歪んでいった。 「誰かの役に立ちたい」が、「自分を犠牲にしなければならない」に変わっていた。 自分の体を削って、心を削って。それが、正しいことだと思い込んでいた。
でも、佐々木さんは違う道を示してくれた。 自分を整えることで、もっと多くの人を支えられる。 自分を大切にすることが、本当の優しさなんだと。
*
翌日、香織先輩に電話をした。
「香織先輩、佐々木さんの動画、見ました」
「どうだった?」
「泣きました。すごく、心に響いて」
「でしょ? 私も初めて見た時、泣いたよ」
「佐々木さんの妹さんのこと、もっと知りたいです。介護士だったって聞いて、すごく共感して」
「そうだよね。美咲ちゃんも、同じ経験をしてるから」
香織先輩は、少し考えてから言った。
「美咲ちゃん、佐々木さんの本、読んだことある?」
「本……? ないです」
「佐々木さん、本を出してるの。半生を振り返った内容で、妹さんのこともたくさん書いてあるよ」
「読みたいです」
「じゃあ、今度送るね。私、持ってるから」
「ありがとうございます」
電話を切った後、私は窓の外を見た。 六月の空。梅雨の前の、爽やかな青空。
佐々木さんの本を読んだら、もっと分かるかもしれない。 自分を大切にすることの意味が。 そして、もう一度立ち上がる勇気が。
*
数日後、香織先輩から本が届いた。 佐々木さんの半生と、あのシャツの開発秘話が綴られた本だった。 表紙には、佐々木さんの写真が載っている。
その日のうちに、読み始めた。
本には、佐々木さんの人生が綴られていた。 体が弱かった幼少期。何度も挫折した青年期。そして、五十五歳で見つけた「志」。
妹さんのエピソードは、動画で聞いた以上に詳しく書かれていた。
『妹は、介護の仕事が大好きでした。利用者さんたちのために、いつも笑顔で働いていました。でも、体は悲鳴を上げていた。腰が痛い、肩が痛い、膝が痛い。それでも、妹は休まなかった』
『私が「休んだほうがいい」と言っても、妹は首を横に振りました。「私が休んだら、利用者さんたちが困る」と。その言葉を聞いて、私は何も言えなくなりました』
私と、同じだ。 「私が休んだら、利用者さんたちが困る」。 私も、同じことを思っていた。
『でも、結局、妹は体を壊しました。腰を痛めて、もう介護の仕事はできないと医師に言われました。妹は泣きました。「もっとやりたかった」と』
『その時、私は気づいたんです。自分を犠牲にして働くことは、本当の優しさじゃない。体を壊したら、結局誰も助けられなくなる。自分を大切にしながら働くことが、長く続ける秘訣なんだと』
自分を大切にしながら働く。 その言葉が、胸に深く刻まれた。
『だから、私はこのシャツを作りました。着るだけで体が楽になるシャツ。これがあれば、妹のような人を救えるかもしれない。介護士さんたちが、長く働き続けられるかもしれない』
『これは、私の贖罪でもあります。妹を救えなかった私の。そして、同じように苦しんでいる人への、せめてもの恩返しです』
贖罪。恩返し。 佐々木さんの言葉には、重みがあった。
私は、本を閉じて、深呼吸をした。 涙が、また溢れてきた。
佐々木さんは、妹さんを救えなかった悔しさを、このシャツに込めた。 そして、私のような人間を救おうとしている。
私は、救われている。 このシャツのおかげで、体が楽になった。 佐々木さんの想いのおかげで、心も楽になった。
なら、私も—— 私も、誰かを救えるかもしれない。 私の経験を、誰かのために活かせるかもしれない。
*
本の最後に、こんな言葉があった。
『このシャツを着て、元気になった人がいたら、その元気を誰かに分けてください。あなたが元気になれば、あなたの周りの人も元気になります。そうやって、元気の輪が広がっていけば、世界はもっと優しくなると思うんです』
元気の輪。 私が元気になれば、私の周りの人も元気になる。
山田さんの顔が、浮かんだ。 私が元気になって、また山田さんに会いに行ったら。 山田さんも、きっと喜んでくれる。
そして、山田さんの笑顔を見たら、私ももっと元気になれる。 そうやって、元気の輪が広がっていく。
「……会いたいな」
独り言が、自然と漏れた。 山田さんに、会いたい。 「おかえり」と言ってもらいたい。
でも、まだ怖い。 復帰して、また同じことを繰り返すんじゃないか。 また体を壊すんじゃないか。
その恐怖が、まだ消えていない。
でも——
佐々木さんの言葉を思い出す。 「自分を大切にしながら働くことが、長く続ける秘訣」。
今度は、違うやり方でやればいい。 自分を犠牲にするんじゃなくて、自分を整えながら働く。 無理をしないで、でも手を抜かない。
それができれば、もう一度、介護の仕事ができるかもしれない。 山田さんのそばに、いられるかもしれない。
私は、本を胸に抱いた。 佐々木さんの想いが、私に力をくれている。
もう少し。 もう少しだけ、自分を整える時間が必要だ。 そうしたら——
また、あの場所に戻ろう。 ひだまり荘に。 山田さんのところに。
══════════════════
第7章 対峙
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休職して、三ヶ月が過ぎた。
医師から「そろそろ復帰を考えても良い」と言われた。 体の状態は良好。日常生活に支障はない。軽い運動もできるようになった。
でも、私はまだ復帰の決断ができずにいた。
「美咲ちゃん、何か引っかかってることがあるでしょ」
香織先輩に、見透かされた。 いつものカフェで、コーヒーを飲みながら。
「……分かります?」
「分かるよ。顔に書いてある」
香織先輩は、優しく笑った。
「体は元気になったのに、復帰しないのは、心の問題でしょ?」
「……はい」
「何が怖いの?」
私は、コーヒーカップを見つめながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「また、同じことを繰り返すんじゃないかって」
「同じこと?」
「自分を犠牲にして、体を壊すこと。また無理をして、また倒れるんじゃないかって」
「うん」
「頭では分かってるんです。自分を大切にしなきゃいけないって。佐々木さんの言葉も、香織先輩の言葉も、ちゃんと覚えてます。でも——」
私は、言葉に詰まった。
「でも、怖いんです。復帰したら、また元の自分に戻っちゃうんじゃないかって」
香織先輩は、静かに聞いていた。
「私、自分のこと、信じられないんです。無理をしないって決めても、いざとなったら無理をしちゃう。そういう人間なんです」
「……美咲ちゃん」
「だから、復帰が怖い。また壊れるのが怖い。でも、復帰しないと、山田さんにも会えない。どうすればいいか、分からないんです」
涙が、溢れてきた。 ずっと、言えなかった本音だった。
香織先輩は、私の手をそっと握った。
「美咲ちゃん。一つ、聞いていい?」
「……はい」
「あなたが自分を犠牲にしちゃうのは、いつからなの?」
いつから。 その問いに、私は考え込んだ。
「……高校生の時、だと思います」
「何かあったの?」
「母が、病気で倒れて」
私は、ゆっくりと話し始めた。 ずっと、誰にも話さなかったこと。 心の奥底に、封印していたこと。
*
高校二年の春、母が倒れた。
病名は、くも膜下出血。命は助かったけれど、後遺症で半身が麻痺した。 父は単身赴任で、家にいなかった。弟は、まだ小学生だった。 結局、母の介護は、私が担うことになった。
毎日、学校から帰ると、母の世話をした。 食事を作って、食べさせて。トイレに連れて行って。体を拭いて、着替えさせて。 夜中に母が痛みで叫ぶと、飛び起きて駆けつけた。 自分の時間なんて、ほとんどなかった。
「助けて」と言えなかった。 言ったところで、誰も助けてくれないと思っていたから。
父は、単身赴任を続けていた。「仕事があるから」と。 弟は、まだ子供だった。頼りにするのは、かわいそうだと思った。 親戚は、口では「大変ね」と言うけれど、実際に手を貸してくれる人はいなかった。
だから、一人で頑張った。 学校の成績は落ちた。友達との付き合いも減った。 でも、仕方ない。私がやらなきゃ、誰もやってくれないから。
二年後、母は施設に入所した。 私の介護では、限界だったから。 医師に「このままでは、お母さんの状態が悪化する」と言われた。 プロに任せたほうがいい、と。
その時、私は思った。 私は、足りなかった。私がもっと頑張れば、母は家にいられたのに。 私は、ダメな人間だ。自分の母親すら、満足に介護できなかった。
それ以来、私は「足りない自分」を埋めるために、ずっと頑張ってきた。 介護の仕事を選んだのも、そのためだった。 「誰かの役に立ちたい」という純粋な気持ちもあったけれど、それ以上に、「自分を許したい」という気持ちがあった。
母を救えなかった罪悪感。 それを償うために、他の誰かを救おうとした。
でも、いくら頑張っても、罪悪感は消えなかった。 だから、もっと頑張った。もっと自分を犠牲にした。 それでも足りないと思って、さらに頑張った。
そして、体が壊れた。
*
「……そういうことだったんだ」
香織先輩は、静かに言った。
「美咲ちゃんが自分を犠牲にしちゃうのは、お母さんのことがあったからなんだね」
「……はい」
「ずっと、自分を責めてたんだ。お母さんを施設に入れたことを」
「はい。私がもっと頑張れば、母は家にいられたのにって。ずっと、そう思ってました」
香織先輩は、私の手をぎゅっと握った。
「美咲ちゃん。それは、違うよ」
「……え?」
「あなたは、十分頑張った。高校生が、一人で親の介護をするなんて、普通できないよ。それを二年も続けたんでしょ? すごいことだよ」
「でも、結局、施設に……」
「施設に入れたのは、正しい判断だったの。プロに任せたほうが、お母さんのためになる。医師もそう言ったんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、あなたは正しいことをしたんだよ。自分を責める必要なんて、どこにもない」
香織先輩の言葉が、胸に沁みた。 でも、すぐには受け入れられなかった。
「でも、私は——」
「美咲ちゃん」
香織先輩は、私の目を真っ直ぐに見た。
「あなたは、『助けて』って言えなかったんでしょ? 一人で抱え込んで、一人で頑張って。でもね、それは強さじゃない。弱さなの」
「弱さ……?」
「うん。『助けて』って言えることが、本当の強さなの。一人で抱え込むのは、『逃げ』なの」
逃げ。 その言葉に、私は衝撃を受けた。
「私は、自分を犠牲にすることで、責任から逃げてたんです……?」
「そうは言ってないよ。でもね、一人で抱え込むのは、周りを信頼してないってことでもあるの。『誰も助けてくれない』って決めつけて、助けを求めなかった。それは、周りの人を信じてなかったってこと」
私は、黙り込んだ。 香織先輩の言葉が、心に突き刺さる。
「美咲ちゃん。高校生の時、誰かに『助けて』って言った? 父親とか、先生とか、誰かに」
「……言ってない、です」
「なぜ?」
「言っても、どうせ助けてくれないと思ったから……」
「本当に? 言ってみたの?」
「……」
言っていない。 言わずに、「どうせ助けてくれない」と決めつけていた。
「もしかしたら、助けてくれる人がいたかもしれない。でも、あなたは助けを求めなかった。だから、分からないまま終わった」
香織先輩の言葉が、私の中で渦を巻いた。
私は、「助けて」と言えなかった。 言っても無駄だと思っていたから。 でも、本当にそうだったのか? 言ってみたら、誰かが助けてくれたかもしれない。
「美咲ちゃん」
香織先輩は、優しく言った。
「過去は変えられない。高校生の時のことは、もう終わったこと。でも、今からは変えられる」
「今から……」
「うん。今度こそ、『助けて』って言えばいい。復帰して、辛くなったら、周りに助けを求めればいい。一人で抱え込まないで」
「でも、迷惑じゃ……」
「迷惑なんかじゃないよ。むしろ、助けを求めてくれたほうが、周りは安心するの。『この人は、限界まで我慢して倒れるタイプじゃない』って分かるから」
香織先輩は、にっこりと笑った。
「私もね、十年前、同じことを学んだの。一人で抱え込むのは、弱さだって。助けを求められることが、本当の強さだって」
「香織先輩も……」
「うん。だから、分かるの。美咲ちゃんの気持ちが」
香織先輩は、私の手を握ったまま言った。
「美咲ちゃん。あなたは、自分を大切にしていいの。『助けて』って言っていいの。それは、自分勝手なことじゃない。むしろ、そうすることで、もっと長く働ける。もっと多くの人を支えられる」
「……」
「自分を整えながら働く。無理をしないで、でも手を抜かない。それが、本当の優しさなんだよ」
佐々木さんと、同じ言葉だ。 でも、今、香織先輩から直接聞くと、また違う重みがある。
「美咲ちゃん。お母さんのことは、もう許してあげて」
「許す……?」
「うん。お母さんを施設に入れたことを、『間違いだった』って責めるんじゃなくて、『正しい判断だった』って認めてあげて。そして、頑張った自分を、褒めてあげて」
頑張った自分を、褒める。 そんなこと、考えたこともなかった。
「十七歳で、一人で親の介護をした。二年間、休まず続けた。すごいことだよ。誰にでもできることじゃない」
「……」
「美咲ちゃん。あなたは、十分頑張った。だから、もう自分を責めないで。自分を許してあげて」
涙が、止まらなかった。 ずっと、自分を責め続けてきた。 母を施設に入れた自分を。十分に頑張れなかった自分を。
でも、香織先輩は「十分頑張った」と言ってくれる。 「自分を許していい」と言ってくれる。
「香織先輩……」
「うん」
「私……私、許していいんですか? 自分を」
「いいんだよ。むしろ、許してあげて。ずっと頑張ってきた自分を」
私は、香織先輩の手を握り返した。 そして、声を上げて泣いた。
*
その夜、私は自分の部屋で、じっと考えていた。
母のこと。 高校時代のこと。 そして、介護の仕事のこと。
私は、ずっと「足りない自分」を埋めようとしてきた。 母を救えなかった罪悪感を、他の誰かを救うことで償おうとしてきた。 だから、自分を犠牲にすることが、正しいと思っていた。
でも、それは間違いだった。
自分を犠牲にしても、罪悪感は消えない。 むしろ、体を壊して、もっと自分を責めることになる。 悪循環だった。
本当に必要だったのは、自分を許すことだった。 母を施設に入れたことを、「間違いだった」と責めるんじゃなくて、「正しい判断だった」と認めること。 頑張った自分を、褒めてあげること。
そして、これからは「助けて」と言えるようになること。 一人で抱え込まないで、周りを信頼すること。
それが、本当の強さなんだ。
私は、窓の外を見た。 夜空に、星が瞬いている。
「お母さん」
独り言のように、呟いた。
「私、ずっと自分を責めてた。お母さんを施設に入れたことを。でも、もう許すことにする。あの時の判断は、正しかったんだって。私は、十分頑張ったんだって」
涙が、また溢れてきた。
「これからは、自分を大切にする。無理をしないで、でも手を抜かない。そうやって、長く働く。たくさんの人を、支えていく」
「だから、お母さん。見守っててね」
星が、一つ、瞬いた。 まるで、返事をしてくれているように。
私は、深呼吸をした。 心が、少し軽くなった気がした。
*
自分を大切にすることは、自分勝手なことじゃない。 自分を整えることで、もっと多くの人を支えられる。 それが、本当の優しさなんだ。
香織先輩の言葉。佐々木さんの言葉。 そして、今夜気づいたこと。
私は、ようやく理解できた。 頭だけじゃなくて、心で理解できた。
もう、怖くない。 復帰しても、同じことを繰り返さない。 今度は、違うやり方でやる。
無理をしそうになったら、「助けて」と言う。 体が悲鳴を上げたら、休む。 それは、弱さじゃない。本当の強さなんだ。
私は、ベッドに横たわった。 久しぶりに、穏やかな気持ちで眠れそうだった。
明日、木村さんに電話しよう。 復帰したいって、伝えよう。
山田さんに、会いに行こう。 「おかえり」と言ってもらおう。
私の再生は、もう始まっている。
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第8章 決意
══════════════════
翌朝、目が覚めた時、不思議な清々しさを感じた。
昨夜、たくさん泣いた。 母のこと、高校時代のこと、自分を責め続けてきたこと。 全部、吐き出した。
そして、自分を許すことにした。 もう、「足りない自分」を埋めようとしない。 これからは、自分を大切にしながら生きる。
ベッドから起き上がり、窓を開けた。 朝の光が、部屋に差し込んでくる。 深呼吸をすると、新鮮な空気が体に満ちた。
さあ、電話しよう。 木村さんに、復帰の意思を伝えよう。
*
スマホを手に取り、木村さんの番号を呼び出した。 コール音が鳴る。一回、二回、三回——
「はい、木村です」
「木村さん、おはようございます。田中です」
「あら、美咲ちゃん! 久しぶり。元気にしてた?」
木村さんの声は、相変わらず穏やかだった。
「はい、おかげさまで。体もだいぶ良くなりました」
「良かった。心配してたのよ」
「ありがとうございます。それで、木村さん。お電話したのは——」
深呼吸をして、言葉を続けた。
「復帰したいんです。また、ひだまり荘で働かせてください」
電話の向こうで、木村さんが息を呑むのが分かった。
「本当に? 体は大丈夫なの?」
「はい。医師からも、復帰しても良いと言われてます」
「そう……」
木村さんは、少し考えてから言った。
「美咲ちゃん、正直に聞くわね。また同じことを繰り返さない自信、ある?」
その質問は、予想していた。 私は、落ち着いて答えた。
「正直に言うと、自信は……まだ完全にはありません」
「そう」
「でも、今度は違うやり方でやります。無理をしそうになったら、助けを求めます。一人で抱え込まないで、周りを頼ります」
「……」
「前の私は、自分を犠牲にすることが正しいと思ってました。でも、それは間違いだったって、今は分かります。自分を大切にしながら働くことが、長く続ける秘訣なんだって」
木村さんは、黙って聞いていた。
「だから、もう一度チャンスをください。今度は、壊れないように働きます」
長い沈黙があった。 私は、心臓がドキドキするのを感じながら、木村さんの返事を待った。
「……美咲ちゃん」
「はい」
「変わったわね」
「え?」
「前のあなたは、『大丈夫です、頑張ります』としか言わなかった。でも今は、自分の弱さを認めて、『助けを求めます』って言えてる。成長したわね」
木村さんの声が、温かかった。
「嬉しいわ。あなたが戻ってきてくれて」
「木村さん……」
「来週から、復帰できる? 最初はリハビリ勤務で、短時間から始めましょう」
「はい! ありがとうございます!」
「こちらこそ、待ってたのよ。山田さんも、ずっとあなたのことを聞いてくるの。『美咲ちゃんまだ?』って」
山田さん。 その名前を聞いて、胸が熱くなった。
「山田さん、私のこと……覚えてるんですか?」
「覚えてるわよ。認知症で色んなことを忘れても、あなたのことだけは覚えてる。不思議よね」
涙が、溢れてきた。 山田さん。私のことを、待っていてくれたんだ。
「木村さん、ありがとうございます。頑張ります……いえ、頑張りすぎないように、頑張ります」
木村さんは、笑った。
「その調子よ。じゃあ、来週の月曜日、待ってるわね」
「はい。よろしくお願いします」
電話を切った後、私はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。 涙が、止まらなかった。
復帰できる。 また、山田さんに会える。 ひだまり荘に、戻れる。
長かった。本当に長かった。 でも、ようやく、ここまで来た。
*
その日の午後、香織先輩に電話した。
「香織先輩、復帰が決まりました」
「本当!? おめでとう、美咲ちゃん!」
「ありがとうございます。香織先輩のおかげです」
「私は何もしてないよ。美咲ちゃんが自分で頑張ったんだよ」
「いえ、先輩がいなかったら、今の私はいません。シャツをくれて、佐々木さんのことを教えてくれて、そして昨日、大切なことを気づかせてくれて」
「昨日の……」
「自分を許していいんだって、教えてくれたこと。『助けて』って言えることが、本当の強さだって教えてくれたこと。あれがなかったら、私はまだ迷ってたと思います」
電話の向こうで、香織先輩が泣いているのが分かった。
「香織先輩?」
「ごめんね、嬉しくて……。美咲ちゃんが立ち直ってくれて、本当に嬉しい」
「先輩……」
「私もね、十年前、誰かに同じことを言ってもらったの。自分を許していいんだって。それで、立ち直れた。だから、美咲ちゃんにも伝えたかった」
恩送り。 香織先輩が最初に言っていた言葉を思い出した。
「香織先輩、私もいつか、同じように誰かを助けたいです」
「うん、きっとできるよ。美咲ちゃんなら」
「そのためにも、今度は壊れないように働きます。長く続けて、たくさんの人を支えます」
「応援してるからね」
「ありがとうございます」
電話を切った後、私は窓の外を見た。 青い空に、白い雲が流れている。
来週から、新しい生活が始まる。 怖さは、まだある。 でも、楽しみのほうが大きい。
山田さんに会える。 利用者さんたちと、また触れ合える。 介護の仕事が、できる。
私は、深呼吸をした。 さあ、準備を始めよう。
*
復帰までの一週間、私は準備に追われた。
まず、体のコンディションを整えた。 毎朝の散歩を続け、軽いストレッチを始めた。 シャツは、もちろん毎日着ている。
それから、心の準備も。 佐々木さんの本を、もう一度読み返した。 「自分を大切にしながら働く」という言葉を、心に刻み直した。
香織先輩と、もう一度会った。 復帰後の心構えについて、アドバイスをもらった。
「美咲ちゃん、最初は無理しないでね。リハビリ勤務なんだから、焦らなくていいの」
「はい」
「それから、辛くなったら、ちゃんと言うこと。一人で抱え込まないで」
「分かってます」
「あと、シャツは毎日着てね。体が楽だと、心も楽になるから」
「もちろんです。もう手放せません」
香織先輩は、満足そうに頷いた。
「よし、準備万端ね。美咲ちゃんなら、大丈夫」
「ありがとうございます」
「また何かあったら、いつでも連絡して。私は、いつでも味方だから」
香織先輩の言葉が、心強かった。 一人じゃない。助けてくれる人がいる。 それが、こんなにも心強いなんて、知らなかった。
*
復帰前日の夜。 私は、ベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。
明日から、新しい生活が始まる。 三ヶ月ぶりの、ひだまり荘。 久しぶりに会う、利用者さんたち。 そして、山田さん。
緊張する。 正直、怖さもある。
また同じことを繰り返すんじゃないか。 無理をして、体を壊すんじゃないか。 山田さんに、迷惑をかけるんじゃないか。
でも——
私は、シャツに手を当てた。 今着ている、あの黒いシャツ。 佐々木さんが、妹のために作ったシャツ。
このシャツには、たくさんの想いが詰まっている。 体の辛さに苦しむ人を助けたい、という想い。 妹を救えなかった悔しさを、他の誰かを救うことで昇華したい、という想い。
私も、同じだ。 母を救えなかった悔しさを、他の誰かを救うことで昇華したいと思っていた。 でも、それだけじゃダメだと分かった。
自分を大切にしながら、誰かを支える。 無理をしないで、でも手を抜かない。 それが、本当の優しさなんだ。
私は、目を閉じた。
明日、山田さんに会える。 「おかえり」と言ってもらえるかな。 私のこと、覚えていてくれるかな。
……きっと、覚えていてくれる。 木村さんも言っていた。認知症で色んなことを忘れても、私のことだけは覚えていると。
会いたい。 早く、会いたい。
私は、そっと微笑んだ。 明日が、楽しみだった。
*
眠りに落ちる前、ふと思った。
この三ヶ月間、私は何を学んだんだろう。
体を壊して、仕事を失って。 自分の存在価値が分からなくなって、毎日天井を見つめていた。
でも、香織先輩と出会って、シャツをもらって。 佐々木さんの物語を知って、自分を許すことを学んだ。
自分を大切にすることは、自分勝手なことじゃない。 「助けて」と言えることが、本当の強さ。 自分を整えることで、もっと多くの人を支えられる。
それが、この三ヶ月で学んだこと。 体が壊れたからこそ、学べたこと。
だから、この経験は無駄じゃなかった。 むしろ、必要な経験だったのかもしれない。
私は、生まれ変わった。 前の私とは、違う人間になった。 もう、同じ過ちは繰り返さない。
明日から、新しい私として、生きていく。
そう思いながら、私は眠りについた。 久しぶりに、穏やかな眠りだった。
══════════════════
第9章 帰還
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三年ぶりに、あの匂いを嗅いだ。 消毒液と、かすかな線香の香り。そして、どこからか漂ってくる味噌汁の湯気。
——いや、違う。三年ぶりじゃない。三ヶ月ぶりだ。
私は今、復帰の日の朝を迎えている。 特別養護老人ホーム「ひだまり荘」の玄関前に立ち、深呼吸をした。
七月の朝。夏の日差しが、アスファルトを照りつけている。 セミの声が、どこからか聞こえてくる。
三ヶ月前、私はここから逃げ出した。 いや、逃げ出したんじゃない。体が壊れたんだ。 でも、今は違う。 私は、自分の意志でここに戻ってきた。
自動ドアが開く。 懐かしい匂いが、私を包み込んだ。
*
「田中さん、おはようございます!」
受付のスタッフが、明るく挨拶してくれた。
「おはようございます。今日から、またお世話になります」
「待ってましたよ! みんな、田中さんの復帰を楽しみにしてたんです」
嬉しい言葉だった。 待っていてくれた人がいる。それだけで、勇気が湧いてくる。
「田中さん!」
奥から、佐藤さんが駆けてきた。三ヶ月前、あの夜勤で一緒だった後輩だ。
「佐藤さん、久しぶり」
「本当に戻ってきてくれたんですね! 嬉しいです!」
佐藤さんは、私の手を握った。
「あの夜、本当にすみませんでした。私がもっと早く気づいていれば……」
「佐藤さんのせいじゃないよ。私が無理をしていただけ」
「でも……」
「大丈夫。今度は、無理をしないようにするから。辛くなったら、ちゃんと言うから」
佐藤さんは、安心したように微笑んだ。
「はい。何かあったら、私にも言ってくださいね」
「ありがとう」
*
更衣室で着替えを済ませ、ナースステーションに向かった。 久しぶりの制服。少し緊張するけど、懐かしくもある。
施設長の木村さんが、待っていてくれた。
「美咲ちゃん、おかえりなさい」
「ただいま、戻りました」
「体調はどう?」
「おかげさまで、良好です」
「そう、良かった」
木村さんは、穏やかに微笑んだ。
「今日はリハビリ勤務だから、無理しないでね。午前中だけの短時間勤務。利用者さんたちに挨拶して、雰囲気に慣れることが目的よ」
「分かりました」
「何か辛いことがあったら、すぐに言ってね。一人で抱え込まないで」
「はい。今度は、ちゃんと言います」
木村さんは、満足そうに頷いた。
「よし、じゃあ行ってらっしゃい。山田さん、待ってるわよ」
*
山田さん。 その名前を聞くだけで、胸が高鳴る。
私は、二階の「さくらユニット」に向かった。 階段を上りながら、三ヶ月前のことを思い出す。
あの頃の私は、毎日必死だった。 利用者さんたちのために、自分の体を削って働いていた。 それが正しいと思っていた。
でも、今は違う。 自分を大切にしながら、利用者さんたちと向き合う。 それが、本当の優しさなんだと分かった。
二階に着いた。 廊下を歩いていると、利用者さんたちが次々と声をかけてくれた。
「あら、田中さん! 久しぶりね!」「おかえりなさい!」「元気になった? 良かったねえ」
温かい言葉が、胸に沁みた。 みんな、私のことを覚えていてくれた。 待っていてくれた。
「ありがとうございます。また、よろしくお願いします」
私は、一人ひとりに頭を下げながら、廊下を進んだ。
そして——
廊下の角を曲がった時、車椅子に乗った小柄なおばあさんと目が合った。
白髪を後ろで束ね、皺だらけの顔に、大きな目。 山田ハナさん、八十二歳。 三ヶ月前、私が最も多くの時間を過ごした利用者さん。
山田さんは、私の顔をじっと見つめた。
認知症で、昨日の食事の内容も思い出せない山田さん。 三ヶ月も経ったんだから、私のことなんて忘れていても当然だ。 そう、覚悟していた。
でも——
「……美咲ちゃん?」
山田さんの口から、私の名前が出た。
「美咲ちゃんじゃないの?」
私は、言葉が出なかった。 目から、涙が溢れた。
「山田さん……」
「やっぱり! 美咲ちゃんだ!」
山田さんの顔が、ぱあっと明るくなった。 その笑顔を見た瞬間、私の中で何かが弾けた。
*
私は、車椅子の前にしゃがみ込んだ。 山田さんの皺だらけの手を、両手で包み込む。
「山田さん、私のこと、覚えていてくれたんですね」
「当たり前じゃないの。美咲ちゃんのこと、忘れるわけないでしょ」
山田さんは、私の頬に手を伸ばした。 皺だらけの、温かい手。
「美咲ちゃん、どこに行ってたの? ずっと待ってたのよ。毎日、『美咲ちゃんまだ?』って聞いてたのよ」
「ごめんなさい、山田さん。私、体を壊しちゃって……」
「体? 大丈夫なの? もう治ったの?」
「はい、治りました。だから、また山田さんのところに来れました」
山田さんの目に、涙が滲んだ。
「良かった……美咲ちゃんが元気になって、本当に良かった……」
「山田さん……」
「美咲ちゃん、無理しちゃダメよ。また倒れたら、私、悲しいから」
その言葉が、胸に突き刺さった。
三ヶ月前、山田さんも言っていた。「無理しちゃダメよ」と。 あの時は、聞き流していた。 でも、今は違う。 山田さんの言葉の重みが、分かる。
「はい、山田さん。もう無理はしません。自分を大切にしながら、働きます」
「本当に?」
「本当です。約束します」
山田さんは、にっこりと笑った。 その笑顔を見て、また涙が溢れた。
「山田さん」
「うん?」
「私、この三ヶ月で、大切なことを学びました」
「何を?」
「自分を大切にすることは、自分勝手なことじゃないって。自分を整えることで、もっと多くの人を支えられるって」
山田さんは、静かに聞いていた。
「だから、今度は違うやり方で働きます。無理をしないで、でも手を抜かない。そうやって、長く、山田さんのそばにいます」
「……美咲ちゃん」
山田さんは、私の手をぎゅっと握った。
「ありがとう。美咲ちゃんが元気でいてくれることが、私は一番嬉しいのよ」
その言葉が、心に深く沁みた。
私がそばにいることより、私が元気でいることが嬉しい。 それは、本当の愛情だった。
「おかえり、美咲ちゃん」
山田さんが、そう言った。 三ヶ月間、ずっと聞きたかった言葉。
「……ただいま、山田さん」
私は、山田さんの手を握りしめながら、泣いた。 声を上げて、泣いた。
三ヶ月分の涙が、一気に流れ出した。 苦しかったこと、辛かったこと、怖かったこと。 全部、涙と一緒に流れていった。
そして、新しい自分が始まる。 山田さんのそばで、自分を大切にしながら、働いていく。 それが、私の新しい人生だ。
*
その日の午後、私は中庭のベンチで山田さんと過ごした。 夏の日差しは強いけれど、木陰は涼しい。 風が吹くと、心地よかった。
「美咲ちゃん、空が綺麗ね」
「そうですね、山田さん」
「私ね、美咲ちゃんがいない間、よく空を見てたの。『美咲ちゃんも、同じ空を見てるかな』って思いながら」
「山田さん……」
「美咲ちゃんが帰ってきてくれて、本当に嬉しい。もう、どこにも行かないでね」
「はい。もう、どこにも行きません」
山田さんの手を握りながら、空を見上げた。 青い空に、白い雲が流れている。 あの雲は、どこに行くんだろう。
私も、長い旅をしてきた。 体を壊して、心を壊して、すべてを失ったと思った。 でも、人との出会いに救われて、自分を許すことを学んで、ここに戻ってきた。
その旅は、必要な旅だった。 前の私のままでは、きっといつか、もっとひどい壊れ方をしていた。 だから、今壊れたことは、むしろ幸運だったのかもしれない。
「美咲ちゃん」
「はい?」
「美咲ちゃんは、いい子ね。本当に優しい子」
「そんなこと……」
「でもね、優しすぎるのは、ダメよ。自分のことも、ちゃんと大事にしなきゃ」
山田さんは、私の目を見て言った。
「美咲ちゃんが幸せじゃないと、私も幸せになれないの。分かる?」
分かる。 今なら、分かる。
「はい、山田さん。分かります」
「じゃあ、約束してね。自分を大事にするって」
「約束します」
山田さんは、満足そうに微笑んだ。
「よし、じゃあ、おやつの時間にしましょう。今日は何があるのかしら」
「プリンらしいですよ」
「あら、嬉しいわ。美咲ちゃんと一緒に食べられるなんて」
私は、山田さんの車椅子を押して、食堂に向かった。
夏の日差しが、窓から差し込んでいる。 廊下を歩く私たちの影が、床に長く伸びている。
これが、私の日常。 私の、新しい日常。
自分を大切にしながら、山田さんと過ごす。 無理をしないで、でも手を抜かない。 そうやって、長く、ここで働いていく。
それが、私の答えだ。
*
復帰初日が終わった。 更衣室で着替えながら、今日一日を振り返った。
緊張したけど、楽しかった。 利用者さんたちが、温かく迎えてくれた。 山田さんに、「おかえり」と言ってもらえた。
体は、疲れている。 でも、心地よい疲れだ。 前のような、削られるような疲れじゃない。
シャツに手を当てた。 今日も一日、このシャツに守られていた。 佐々木さんの想いに、支えられていた。
「ありがとうございます」
小さく呟いた。 佐々木さんに。香織先輩に。木村さんに。 そして、山田さんに。
私を支えてくれた、すべての人に。
私は、一人じゃない。 たくさんの人に支えられて、ここにいる。 だから、私も誰かを支えられる。
それが、私が学んだこと。 この三ヶ月で、学んだこと。
更衣室を出て、施設を後にした。 夕日が、空を赤く染めている。 美しい夕焼けだった。
明日も、ここに来る。 明後日も。その次の日も。 ずっと、ここで働いていく。
自分を大切にしながら。 山田さんのそばで。
私は、帰ってきた。 ようやく、帰ってきた。
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第10章 再生
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復帰から、三年が経った。
私は今も、ひだまり荘で働いている。 あの頃と同じ、二階の「さくらユニット」。 でも、働き方は、まったく違う。
無理をしない。でも、手を抜かない。 辛くなったら、「助けて」と言う。 自分を大切にしながら、利用者さんたちと向き合う。
それが、今の私のスタイルだ。
*
ある日の午後、後輩の鈴木さんが相談に来た。 入職二年目の、二十四歳。真面目で、利用者さん思いの子だ。
「田中さん、ちょっといいですか」
「どうしたの?」
「最近、体がしんどくて……。でも、人手が足りないから、休めなくて」
私は、三年前の自分を見ているような気持ちになった。 あの頃の私も、同じことを言っていた。
「鈴木さん、ちょっと来て」
私は、鈴木さんをナースステーションの隅に連れていった。 そして、カバンから何かを取り出した。
「これ、騙されたと思って、着てみて」
「え……Tシャツ、ですか?」
「うん。着るだけで、体が楽になるの」
鈴木さんは、怪訝そうな顔をした。 当然だ。私も最初は、同じ顔をしていた。
「怪しいって思うでしょ? 私も最初はそう思った」
「正直、ちょっと……」
「でもね、私、これで人生が変わったの」
私は、鈴木さんの目を見て言った。
「三年前、私も体を壊したの。鈴木さんと同じ。無理をしすぎて、腰がダメになって、三ヶ月休職した」
「田中さんが……?」
「うん。その時に、このシャツに出会った。着てみたら、本当に体が楽になって。それで、立ち直れた」
鈴木さんは、シャツを見つめている。
「このシャツを作った人はね、妹さんのために作ったの。妹さんも介護士で、体を壊して辞めちゃって。その人は、『介護士の体を守りたい』って、このシャツを作った」
「……」
「だから、これは私からのプレゼント。恩送りっていうのかな。私も、誰かにもらったから」
鈴木さんは、シャツを受け取った。
「ありがとうございます……でも、こんな高価なもの……」
「いいの。私も、立ち直れた時に決めたの。同じように苦しんでる人に、このシャツを渡そうって」
鈴木さんの目に、涙が滲んだ。
「田中さん……」
「あとね、鈴木さん。一つだけ、覚えておいて」
「何ですか?」
「自分を大切にすることは、自分勝手なことじゃないの。自分を整えることで、もっと多くの人を支えられる。それが、本当の優しさなんだよ」
鈴木さんは、涙を流しながら頷いた。
「はい……ありがとうございます」
「辛くなったら、いつでも言ってね。一人で抱え込まないで」
「はい」
鈴木さんは、シャツを胸に抱いて、深くお辞儀をした。 私は、その背中を見送りながら、三年前の自分を思い出していた。
香織先輩が、私にシャツを渡してくれた時。 「騙されたと思って、着てみて」と言ってくれた時。 あの時の香織先輩も、同じ気持ちだったんだろう。
恩送り。 私が受け取った優しさを、次の誰かに渡す。 そうやって、優しさの輪が広がっていく。
*
その日の夕方、私は山田さんの部屋を訪ねた。
山田さんは、ベッドに横たわっていた。 八十五歳になった山田さん。体力は、少しずつ落ちてきている。 でも、笑顔は変わらない。
「山田さん、調子はどうですか?」
「美咲ちゃん! 来てくれたの。嬉しいわ」
私は、ベッドの横に座った。
「今日はね、後輩の子に、あのシャツを渡したんですよ」
「あのシャツって?」
「私が着てる、黒いシャツ。着ると体が楽になるやつ」
「ああ、美咲ちゃんがいつも着てるやつね」
山田さんは、認知症で多くのことを忘れてしまう。 でも、私が毎日同じシャツを着ていることは、なんとなく覚えているらしい。
「後輩の子もね、私と同じように体がしんどかったの。だから、渡したの」
「そう。美咲ちゃんは、優しいわね」
「山田さんのおかげですよ。山田さんが、『自分を大事にしなさい』って言ってくれたから」
「私が?」
「はい。三年前、復帰した時に。『美咲ちゃんが元気でいることが、一番嬉しい』って」
山田さんは、不思議そうな顔をした。 きっと、言ったことを覚えていないんだろう。
でも、それでいい。 山田さんの言葉は、私の心に刻まれている。 それが、大事なことだ。
「山田さん」
「うん?」
「私ね、今、幸せなんです」
「そう?」
「はい。毎日、ここで働いて、山田さんと話せて。それが、すごく幸せなんです」
山田さんは、にっこりと笑った。
「美咲ちゃんが幸せなら、私も幸せよ」
「ありがとうございます」
「でもね、美咲ちゃん。無理はしちゃダメよ」
三年前と、同じ言葉。 山田さんは、いつも同じことを言ってくれる。 それが、私にはありがたかった。
「はい、山田さん。無理はしません。約束します」
「よし、いい子ね」
山田さんは、私の手を握った。 皺だらけの、温かい手。
「美咲ちゃん、ありがとうね。いつもそばにいてくれて」
「こちらこそ、ありがとうございます。山田さんがいるから、私、頑張れるんです」
「大げさねえ」
山田さんは、照れくさそうに笑った。
窓の外では、夕日が沈もうとしている。 オレンジ色の光が、部屋を染めている。 美しい夕焼けだった。
*
帰り道、私は空を見上げた。 夕焼けが、少しずつ夜空に変わっていく。 一番星が、瞬き始めている。
三年前、私は壊れた。 体も、心も、すべてが壊れたと思った。 生きている意味が分からなくなった。
でも、人との出会いに救われた。 香織先輩が、シャツをくれた。 佐々木さんの物語が、私に力をくれた。 そして、山田さんが、「おかえり」と言ってくれた。
私は、一人じゃなかった。 たくさんの人に支えられて、立ち直ることができた。
だから今、私は誰かを支えたい。 私が受け取った優しさを、次の誰かに渡したい。 そうやって、優しさの輪を広げていきたい。
それが、私の使命だと思う。
*
家に帰り、シャツを脱いだ。 三年間、毎日着続けてきたシャツ。 少しくたびれてきたけれど、まだまだ現役だ。
このシャツには、たくさんの想いが詰まっている。 佐々木さんの、妹への愛。 香織先輩の、私への優しさ。 そして、私自身の、再生の記憶。
明日も、このシャツを着て、仕事に行く。 明後日も。その次の日も。 ずっと、このシャツと一緒に。
自分を大切にしながら、誰かを支える。 それが、私の生き方だ。
*
眠りにつく前、ふと思った。
もし、三年前の自分に会えるなら、何と言うだろう。
きっと、こう言う。
「大丈夫。あなたは、立ち直れる」
「体が壊れても、心が壊れても、必ず立ち直れる」
「だって、あなたは一人じゃないから」
「支えてくれる人がいる。待っていてくれる人がいる」
「だから、諦めないで」
「自分を大切にして。『助けて』って言って」
「そうすれば、きっと、大丈夫だから」
三年前の私は、きっと信じられないだろう。 「そんなこと言われても」と、うつむいてしまうだろう。
でも、大丈夫。 時間はかかるかもしれない。 でも、きっと、立ち直れる。
私が、その証拠だから。
*
これは、私の物語。 体が壊れて、すべてを失ったと思った私が、どうやって立ち直ったのか。 どうやって、「自分を大切にする」ということを学んだのか。
もし、この物語を読んでいるあなたが、今、辛い状況にいるなら。 もし、体が悲鳴を上げているのに、無理を続けているなら。 もし、「自分を犠牲にするしかない」と思い込んでいるなら。
どうか、立ち止まってほしい。 そして、考えてほしい。
自分を大切にすることは、自分勝手なことじゃない。 自分を整えることで、もっと多くの人を支えられる。 それが、本当の優しさなんだと。
「助けて」と言っていい。 一人で抱え込まなくていい。 周りを信頼して、頼っていい。
そうすれば、きっと、大丈夫。 あなたも、立ち直れる。 私が、その証拠だから。
*
窓の外で、星が瞬いている。 一つ、また一つ。 夜空に、光が増えていく。
私は、目を閉じた。 明日も、山田さんに会える。 明日も、利用者さんたちと触れ合える。 明日も、自分を大切にしながら、働ける。
それが、私の幸せ。 私の、新しい人生。
おやすみなさい。 また明日。
【この物語に登場する「あのシャツ」は、実在します】
物語の中で、主人公・美咲を救った黒いシャツ。 これは、宮城県仙台市の会社が開発した、実在の商品です。
もし、この物語を読んで、「自分も体が辛い」と感じた方がいたら。 どうか、自分を大切にしてください。 そして、興味があれば、あのシャツを試してみてください。
あなたの再生を、心から応援しています。
【完】




